私は不満が多い人間だと、自分でも思う。

「考えすぎだよ」「仕方がないよ」と、これまでの人生で何回言われたことだろうか。バイト先や部活で、ため込んでいた不満―たとえば失礼な客にもヘコヘコしていなければいけないことや、年上の部員に意見を言えばほとんど口答えだと捉えられて、怒られておわること―それらを同僚や友人にうちあけても、彼らが上記の台詞を言い、会話は終わる。どうにかして、一緒にこの状況を改善しよう!という激アツ少年漫画展開になったことは、残念ながら一度もなかった。

「面倒くさいやつ」と思われないように、逆らわずに生きた方が楽だけど。

そりゃそうだ。だって、めんどくさいもん。どんなにおかしいと思っていてもどんなに理不尽でも、現行の制度や風潮に逆らって声を上げることは精神的にものすごく消耗することだし、周りからも白い目で見られることは避けられない。「面倒くさいやつだな」と思われながら生活していかなければならないのだ。そんなリスクを負うよりも、不満だろうが逆らわないで順応して生きたほうが圧倒的に安全だし楽ちんだ。 

#KuToo 運動に出会って、自分の内面と向き合って

「面倒くさいやつだと思われてんだろうな…やだな…」という気持ちを抱えていたある日、私はとある運動の存在を知った。石川優実さんが発起人となった「#KuToo」だ。そのコンセプトを調べていくうちにとても胸が熱くなった。何故なら、わたしも部活でパンプスを強制されて嫌な思いをしたことがあり、「こんな靴、疲れるし絶対効率的じゃないですよね?スニーカーでよくないですか?」と訴えても「礼儀だからさ」「慣習だから仕方ない」と一蹴されてものすごく悔しかったことを覚えていたからだ。一気に石川さんを応援したくなった。

しかし、しばらく石川さんや他のフェミニストの方々のツイッターを追ううちに私は彼女たちを敬遠するようになっていった。彼らの言動は少し乱暴に見えることもあり、「フェミニスト」という言葉についてぬぐえない「口うるさく攻撃的で、感情的で面倒くさい自己中心的な女」といったイメージが少なからずあり、誤解されていることにも納得してしまっていたし、「もっと丁寧な言い方で活動すれば理解が得られるのに…」と、自分は何も活動していないのに偉そうに考えていた時もあった。他人から「面倒くさいやつだな」と思われるのが怖くて仕方がない私も、他人に対する「面倒くさいやつだな」を内面化しているれっきとした一人だったのである。

「面倒くさいやつ」と思われても、自分の表現を諦めたくはない

しかしながら今、私はこう思う。パンプスを脱ぐ権利も、店員が客と対等の存在として扱われる権利も、年上に意見を言える権利も、そして怒り、主張する権利も、すべてはみんなのために、当たり前に保護されていなければならないのだ。私たちは、頭を下げて「権利をください」とお願いする必要はない。こう気が付けたきっかけはフェミニズムだった。だけど、フェミニズムに興味がない人にもこのことは知ってほしいのだ。

あたしたちには怒る権利がある。主張する自由がある。「面倒くさいやつだな」と思われても、怖くても、あたしは自分の表現を諦めたくはない。あきらめたくないぞ、やっぱし。