小さいころ新しい子に出会うたび、無邪気に交わした言葉がある。
「○○ちゃんっていうの?友達になろう!」
本人たちからすればなんてことのない可愛らしい会話なのだが、私は幼いながらに違和感を覚えて、そう言われると咄嗟に上手く笑えなかった。
友達に「なる」って何?友達ってそんな契りみたいなのを交わして成立するものなの?私とあなたは出会ったばかりだし、友達という関係は「今」決めるものではなくて、「これから」築いていくものでしょ?そんな疑問が頭の中でぐるぐると流れる。
だけど当時の私はそれを上手く言葉にできなかったし、そんな風に考える自分は卑屈で悪い子のような気がして、いつも通りの笑顔を作って「もちろん!」と手を差し出した。
でも今になってもその違和感は消えないし、その契約のような言葉にちょっとした気持ち悪さを覚える。
「よーいスタート」で始まる友人関係に、違和感をぬぐえなかった
私の考えでは、友達というのは「はい、よーいスタート!」みたいな感じで意識的に始まるのではなくて、気づいたら心の中でお互いをそう感じているものだからだ。合図で始まるなんて、なんだか演技やごっこ遊びみたいで、ちょっと可笑しくて笑ってしまう。
思えば小学校でクラス替えがあったとき、新担任の先生に「さあ、今日から新しいお友達との生活が始まります。皆さん仲良くしましょう」みたいな感じで話されるのも好きじゃなかった。
私たちは教室という一つの箱に入れられただけで全員「友達」なのか。しかもまだよく知らない大人に、よく知らない子たちと自分の関係を勝手にそう定義づけられることにもやもやしていた。(我ながら可愛くない子供だったと思う。)
しょっちゅう取っ組み合いの喧嘩をしている明らかに馬が合わない男子たち。意地の悪いクラスのリーダーとその子に歯ブラシを隠された女子。私から見ても彼らはかろうじて「クラスメイト」という形を保っているだけで、友好関係なんて本人たちも望んじゃいないことが丸わかりだった。
だけど先生たちはそんなもめ事が起こるたびにすっ飛んできて、「何やってるの!友達にひどいことしちゃだめでしょ!!」と叱責するのだ。私の記憶の中ではそういう時に「無理して友達だと思って絡まなくていい。だけどクラスメイトとしてお互いの性格は認めようね。」と諭してくれるような先生はいなかったと思う。
当たり障りなく皆と仲良くなれた。でも、そうしたかったわけじゃない
ゆくゆくは大人になって、幼いころ刷り込まれた「we are friends」「人類みんな友達」精神は神話だったと気づく。世の中には自分の理解を超えるほど卑劣な人たちもいるし、良い人なんだけどどうしても自分とは相容れない人たちもいる。
だけど成長して世界が広がれば、教室という小さな村落の中でどうにか「気の合う子」を見つけなくてはならなかった子供時代とちがって、「神様、私をこの子に出会わせてくれてありがとうございます。」と天を仰ぎたくなるくらい素敵な友人に知り合う可能性はずっと高くなる。
でも私たちはそういうことは教えられずに、クラスのみんなを友達と呼ぶことが正義だと教えられ、誰とでも仲よくできるというのは「いい子」の鉄則だった。私自身、派手なタイプの子とも地味とされていた子とも、クラスカーストのさまざまな階層と上手くやっていくことができた(そもそも、子供にも上下関係を作るという悲しい習性が備わっているのだから、「全員友達」という対等システムが普及するわけがない)。だがそれは優等生として先生から信頼も厚い自分の義務のような気がしたからだし、本当は全員の仲を取り持つなんてことよりも、親友とひたすらおしゃべりをしていたかった。
それから「仲良くしてね」という言葉。これは大人になった今でも新年のあいさつなどで使いがち(「明けましておめでとう。今年も仲良くしてね!」てきなあれである)だが、私はやはりどこか引っかかってしまうので使わない。
些細な言葉だしこんなことを気にする私が細かいのかもしれないが、だってなんだか強制的に感じることもあるではないか。私たちは本当に一緒に居たい人たちのために自分の心と時間を使っていいし、子供も大人も「クラスメイト」「同僚」以上に距離を縮めたくない相手に、無理して歩み寄らなくても良いのではないか。
だけど、この世界はそういうことを許してくれない。そして今日も形式的に仲の良さを演出することが、人生という孤独な大海原を上手に泳ぐ方法なのだろう。自分でも情けないが、私は小賢しい人間なので、意に反しながらもそういう小手先を身に付けてしまった。でもどうしてだろう、上手く泳げているはずなのに、ときどき息継ぎの仕方を忘れて不安になってしまうのは。
気が付けばよく一緒にいる。理想の友達って、そういうもの
やっぱり本当は、「私と君は気づけばよく一緒に居て、よくわかんないけど仲が良いよね」というのが私は理想だし、実際に普段連絡を取り合う友人はそういう子たちが多い。そしてそういう友達といるときは、「仲良く見えているか」なんて気にしたこともないし、「私達友達だよね?」なんてご丁寧な確認もしたことがない。とてもとても気楽で、だから思い切り息が吸えるのだ。
自然体がいい。友達に「なる」/ 仲良く「する」じゃなくて、友達「である」/ 仲が「良い」。DoではなくてBeがいい。