私はずっと、ルナちゃんになりたかった。
他の誰でもない、あの子になりたいと思い始めて、どれくらい経っただろう。
振り返れば、ブスを自覚する度に心は蝕まれていた。
「ルナはかわいいのにお前はブスだな!!」
初めてブスと自覚したのは小学校5年生の時。
当時、私と同じタイミングで隣のクラスにはルナちゃんという女の子が転入していた。初めて会った時には、へえ、転入生は私だけじゃないんだ、というよくある安心感を覚えただけで、まさかその後10年以上その子の存在を潜在意識の中で引きずるとは、夢にも思わなかった。
「ルナはかわいいのにお前はブスだな!!」
ある日隣のクラスから男子が2人私を訪問してきて、突然その言葉だけ残して帰って行った。その瞬間にどう思ったかは記憶から消えた。ただ、10年経っても忘れられない言葉になった。気付いた時には家の大きな洗面所の鏡の前で立ち尽くし、己の容姿が劣っていることを自覚していた。
翌日から、小学生なのに顔のほとんどがすっぽり隠れるような大人用の大きいマスクをして学校に行った。この醜い顔を隠すにはマスクしかないと縋り付き、卒業するまでマスクを手放したことはなかった。
たった一言と決別できなくて、いつまでも自分を赦せなかった
21歳の冬、私は整形をした。この世はルッキズムを捨てることはないし、いつも何かを比較してしまうのは人間の生まれ持った罪なんだと思う。こんな世界を変えようとすることも疲れてしまった。
高校生の時に教会のお泊まり行事に参加して知った。男子はカワイイ女子ランキングを作っているということ。いわゆる通り魔ミスコン。大学に入って知った。男子はかわいい女子に優しいということ。いつも一緒にいる友達が先輩たちに「顔が好き、超タイプ」とチヤホヤされることが日常。
日ごとゆるやかに、私の自己肯定感は低空飛行どころか、地面を擦り墜落状態で滑走するようになった。
鏡の前から何十分も動けなくなって、どんどん見つかる自分の顔のアラに絶望する夜が明けたかと思えば、メイクをする朝は何もかもが嫌で完成しては全部落とし最初からやり直す繰り返しを毎日3回はしていた。
顔がブスだから、救いようのない顔だから、こんな顔だから他人に大事にしてもらえないんだ。二重にする技術はアイプチしている女子にも気付かれないくらい上手かったのに、同級生にお化粧いつも綺麗で上手だねと褒められていたのに、年下の女の子には「ひまわりちゃんすごくかわいい!」と会う度言われていたのに、なのに、なのに。
「ルナはかわいいのに、お前はブスだな」のたった一言と決別できないせいで、いつまで経っても自分を赦せなかった。
だから私は白旗を掲げる。
カワイイの象徴には1ミクロン程度しか近づいていないけれど
術後数ヶ月、今はかろうじて人間の顔に近づいたように感じる。整形は魔法じゃないという言葉をよく聞くけど、私には魔法のような効果をくれた。なりたい顔になれる魔法ではなく、気持ちが変わる魔法。私がたまたま運良くそういう効果を得られただけかもしれないが、整形前は福笑いみたいなぐちゃぐちゃの顔だと思っていたのが普通の顔になったような気がする。
周りに評価してもらうことを諦めた。相変わらず男性から見たら私は化粧の濃いブスだろう。誰が見てもデブだろうしこの調子だとこれからも恋愛は縁遠い。30万円という大金を払い、痛みと恐怖に耐え、ダウンタイムの壮絶な不安にかられた割には顔にミリ単位の変化しか得られていない。私が10年前に刷り込まれたカワイイの象徴であり絶対的基準だった存在には1ミクロン程度しか近づいていない。
だけど、ここで私は10年以上引き摺ってきたあの言葉と決別すると誓う。
“ルナちゃんになれなかった私”は今夜死んだ。
そして次は“ひまわりちゃん”が息をする。