昔から文章を書くのが好きだった。
小学生の頃、授業で書いた作文が地区の作文コンクールで入賞したり、高校生の頃は夏休みの宿題で課された作文が校内の作文コンテストで銀賞をもらったりしたこともある。
とびきり文章を書くのが上手いとも思っていなかったけれど、そこそこ良い線をいっていると自負していたし、私は自分の書く文章が好きだった。
けれど、かがみよかがみに出会うまでは一度も能動的にコンクールやコンテストに応募した経験はなかった。
初めて書いた小説で思い知らされた実力差
大学生になり文芸サークルに入って、生まれて初めて小説を書いた。
そこでサークルの他の部員が書いた作品に圧倒され、私の微々たる自信は無残に消え去った。
苦し紛れの言い訳をすると、私は理系で部員のほとんどは文学部、本を読むのも物を書く経験値も、文学的知識も私とは比べ物にならないほど豊かだった。
高校時代から文芸部で執筆をしていた人もいたし、趣味で小説を書いたり、同人誌を作ったりしたことがある人もいた。
私はといえば、たかが夏休みの作文の宿題だ。
他の部員の文章を読むのも、文学談義を聞くのも好きだったからサークルは4年間在籍したけれど、小説を書いたのは1年生の時と引退する3年生の時に新歓で出す冊子へ寄稿する2回きりだった。
締め切りまでになんとか書き終え、サークル室でぐだぐだしていた時に「やっぱり小説うまく書けない、みんなすごいなぁ」とこぼすと、隣にいた同期に「エッセイの方が向いているんじゃない」とぽろりと言われた。
深い意味はなかったと思う。
たしかに小説よりは気楽に自分の言葉で思ったことや感じたことを書くのは向いている気がした。面白くしたり、文学的意義や娯楽を生み出したりする苦しみもなかった。
エッセイの方が向いているのかもしれない。思い出す原体験
思い返せば、エッセイのようなものは中学生から書いていた。
ブログだ。
文章を鍵がついた紙の日記帳ではなく、インターネット上で公開し書いてきたのは他の誰かに私を知ってほしいというささやかな願いもあれど、根本的には自分の為だった。
だから、書いた文章を何かに応募するなんて考えたこともなかった。
それに大学時代のサークルで感じた劣等感をどこかで引きずっていたのかもしれない。
コンテストや採用不採用がある媒体に応募しなければ、第三者に評価されることもなかったし、否定されることもなかったからだ。
安全圏の中で自分が気持ちよくなるだけの文章を書くのは、至極心地がよかった。
私は広大なインターネットの中で誰にも傷つけられない自分だけの桃源郷に閉じこもっていた。
でも「かがみよかがみ」に出会い、私もエッセイを投稿してみたい!挑戦してみよう!と初めて積極的な気持ちになれたのだ。
同世代の胸がぎゅっとなる悔しい思いやコンプレックスを乗り越えた時の前向きな姿、自分を表現することの素晴らしさがそこには溢れていた。
なにより何度でも応募できる、の文言が私の背中を押してくれた。
毎回素敵な文章を書けるに越したことはないけれど、そうでなくても優しく扉を開いてくれている、受け止めてくれる場所があるのは私にとって大事なことだった。
私を癒すためではなく、他の誰かのために文章を書きたい
今までは文章を書くのは自分の為と思い、それで満足していた。
だけど本当は自分以外の誰かにずっと読んで欲しい・気付いて欲しいと思っていた。
自分の欲求と素直に向き合い、閉じた世界から踏み出した時、まだ見ぬ誰かを思い自然と言葉が溢れてきた。
私が私を癒す為に書いた文章を他の誰かの為にも書いてみたくなったのだ。
自分の欲望と向き合うのを恐れないで欲しい。
「私の為」から「誰かの為」になるかもしれない文章を書ける喜びは、自分だけを満たしていた時よりはるかに輝いているものだから。
もちろん他者から評価されるだけが全てではない。
それでも他者から存在を知ってもらい、共感してもらえることは一人ぼっちで書いていた時には得られなかった誇らしさと勇気を与えてくれる。
一歩踏み出せば、誰かをエンパワーメントできるかもしれない
私にも、読んでいるあなたにも、他人をエンパワーメントする原動力がある。
だから、かがみよかがみに掲載されているエッセイを読んで自分も投稿しようか悩んでいる人は一緒に一歩を踏み出してみよう。
私も一歩を踏み出したから、今こうして読んでいるあなたと出会えた。
失敗することも、凹むこともあるかもしれない。
だけど、だからこそ書き続けよう。
自分の為に、そして同じ時代を生きる誰かのために。