遡ること3年前の夏、私は気分でもないスタバのニューヨークチーズケーキを「おいしい」と笑顔を作りながら咀嚼していた。目の前には当時34歳、17歳年上の男。
ニューヨークチーズケーキ、味が濃厚だから決して真夏に食べるようなものではないと私は思うんだけれど、それはその男に半ば無理矢理買われて押しつけられた物だった。
彼は会うたびにこういうことをする。とにかく私になにか物を買い与えようとする。
それを選ぶ時いつも私の希望はあまり重視されなくて、いつも、彼の買いたい物を一方的に押しつけられて、私はそれでものを粗末にするのがたまらなく悲しく感じてしまって、仕方なく?無碍にもできず?受け入れていた。
手に入れられる物は、入れられるうちに全てゲットしときたい。
そんな浅ましさと言うべきか貪欲さと言うべきか。そんなものが、17歳、華のJKと言える年齢の少女の中で輝いていた。
男が自分のために使った金額を自分の価値と思い込んでいた高校時代
その当時は、「デート代全部払って貰える、奢られる女がイイ女」というネットで見るモテテクとかの言説を信じてたし、だから男の子とデートに行っても「今日はいくら奢られた」「プレゼントは幾らのアレだった」とか、いちいち計算してた。
奢られた金額が自分の価値なんだという、今思えばトンデモな言説を信じていた。
人からの評価を数字という可視化できるものに還元したかった。だってそっちのがわかりやすいし。数字は裏切らない。
自分は価値ある人間だというのを、根拠付きで示したかった。
当時は自分に自信がなかったから、「確かなもの」に見えるものに縋りたかったんだと思う。
自分の価値をお金に換算して、自分を「お店の棚に並んだ商品」みたいに扱って。
我ながらせこせこしてたし幸せじゃなかったなと思う。だって、結局貰ったプレゼントとかニューヨークチーズケーキ、純粋に楽しめた覚えが無いもの。
奢ることでこの人は私になにを望んでいるのかな。
付き合って欲しい?自分のものにしたい?それとも優越感や支配欲に浸りたいの?
怖くて、結局貰ったプレゼント系は全部捨てた。盗聴器とか隠しカメラとかがもし仕込まれてたら怖いもの。念が籠もってそうで……っていう生理的なものもあるけど。
奢ることの代償として一体なにを求めているのか。怖くて気が気じゃなかったから、安心して楽しめなかった。
結局、タダが一番高いのよね。
自分の価値を認めるのは他人じゃなくて自分自身
「奢られる額が女の価値?いいえ、私の価値は誰にも決められないの」
今なら私はそう言うだろう。
3年前、高校生の時、私は貰ったお小遣いをせっせと自分の「価値」を高めるために費やしていた。
自分を純粋に喜ばせるためじゃなくて、「女としての身だしなみ」としての上下揃いのブラとショーツ、「女としての理想に近づくため」の日焼け止め、美白用品、ボディスクラブ、ヘアケア、スキンケア用品。
楽しくなかったと言ったら嘘になる。でも、奢られるためにそんなに頑張って、自分を認めてあげたいのに認めるかどうかは他人のよく知らない男に委ねられるってそれ、悲しすぎるしもっといいお金の使い道や生き方があるよ、過去の私。
他人の価値基準で生きる世界は窮屈だし、それよりも自分を満足させる方がもっと簡単で、満たされる気がする。いや、気がするじゃない、きっと、絶対そうだと思うから。
完全に自己完結な消費が結局一番自分を楽しませてくれる
楽しみたいなら、自分で買ってこそなんぼだと思う。
誰にも気を遣わない、自分の、自分による、自分の為の出費。完全に自己完結で、消費の喜びを他の誰にも邪魔させない。
本当に最高だと思うから、「奢られるのがいい女」の神話に騙されて人生の時間を浪費するなんてほんと勿体ないと思うから。
もし3年前の私みたいにこの説に囚われた人がこのエッセイを見て、自分を認めて満足させる楽しさに気付いたらと思う。
ご自愛、めちゃくちゃ楽しいんで。満たされるんで。自尊心爆上げするんで。もし良かったら、やってみそ。