8月1日、真夏の始まりを告げた。いつも通りだ。蝉も喜んで声を響かせている。私はただ、声を聴いたその一瞬だけで、夏休みの独特な清涼感をこれまた一瞬だけ味わった。実際どの木に止まっているのかも、何を想って鳴いてるのかも露知らずだ。大前提に同じような空間で同じような感じに呼吸してるだけ。
といったように、世の中への生産性なぞ微塵にもないことを思いふけることができるのは、きっとこの夏は私にとっていつもと違う夏なんだろうな。っていう暗示もあるのだろう。
今年は地元で生活が完結してしまっている
この夏はずっと実家にいるつもりだ。普段ならば、ほぼすべての時間を異世界の海外に投じるか、実家には住んでいてもアルバイトでの勤務時間に充てている。蝉の声とは違った夏休みの独特な清涼感に取り憑かれている私は、どちらを選択しても「異世界のため」という目的からは逃れない。そして、今後も逃れるつもりもなかった。
今はこんなご時世。されどこんなご時世。夏休みなんか設けなくたって実家、もとより私は地元という地にずっといる。その空間だけで生活が完結できてしまっている、完結しなきゃいけない閉鎖感というのは昔のある時とは違う種類だと思う。
実は…の連鎖に奇跡を感じていた夏
ある時とは、小学校低学年の夏のひととき。
同じ地元のフィールド内ではあっても、引越しをして今の実家へと環境が変わった。専業主婦であった母も仕事を兼ねるようになり、たちまち心の居場所を見失った気がしていた。小学校低学年の私には自発的に何かを行うという概念もまだ芽生えてなかったがゆえ、空虚な部屋でのひとりぼっち。時間は、刻々と過ぎている。
だが、学区が変わっても小学校の友達は遊びに誘ってくれた。心が嬉しさで埋められていった。実は…という言葉が決まって頭につくんじゃないかと思うほど、実は…学区外での友達は、その遊びに誘ってくれた友達と知り合いだった。実は…引越してきた時に同世代だから仲良くなりたいなと思っていたんだ!と打ち明けられた。こんなふうに、「実は…の連鎖が巻き起こった」のだ。
たしかにどちらも地元の土地に変わりはないのだからそんなことあってもおかしくないじゃんってなるかもしれない。でも、当時の私からしたら奇跡じゃない?とキラキラしているものに感じてた。
あの時、地元に存在したキラキラの友情を想った
地元に想うこと。私は土地での名産品や、絶景、夏限定!ここでしかできないアクティビティなどなどではなく、真っ先にあの時存在したキラキラの友情を想った。あの時と同じ地元の土地で。
今はそう想うのも私だけのひとりよがりに過ぎなくて、その友情や友達たちの現在を知りたいなというわけでもない。その友情との連絡も時間と共に途絶えている今。ノスタルジックに浸りたいだけ。現在どうなっているかよりも、あの時の時間が存在したことに偽りはないし、地元という空間を共有したことへの想いを馳せたいのだ。