2015年夏、安保法制に反対するデモや抗議運動が全国各地で巻き起こった。私の職場のすぐそばでも連日大勢の人々が押し寄せ、30年以上働いている人でさえ「こんな光景は初めて」と言うほど、異様な活気に満ちていた。
出勤直後から
「せんそーはんたい!」
会議をしていても、
「きょーこーさいけつ、ぜったいはんたい!」
事務作業に追われている最中も、
「アベハヤメロ!」
抗議の声は、職場の窓や壁を突き破って四六時中響いていた。国会審議の白熱っぷりに比例するように声も大きくなり、職場のやりとりや電話の声がかき消されることもあった。

初めて間近で見つめたデモ。いつもと違う感情を覚えた夏。

聞こえてくるのは、コールだけではない。参加者がマイクとトラメガを使って安保法制や今の政権に対する思いのたけをぶつけていた。子育て中の主婦、サラリーマン、学生、戦争を経験された高齢者もいた。人前で話すのは初めてだという人が多く、緊張からか声が震えて言葉に詰まり、上手く話せる人ばかりではなかったが、思わず手を止めて聞き入ってしまうことが増えた。

政治にそこまで関心はなかったし、日常の話題として取り上げることは滅多になかったが、夏になると戦争に関する番組や記事が自然と目に入った。その度に戦争の恐ろしさや、暴力の無力さを痛感させられ、今の政治もなんかちょっと変だよなぁとは思っていた。けれど、気づいたら忘れるの繰り返しだった。

この年もそうなるかに思えたが、デモを間近で見つめて「戦争」や「政治」というワードが妙に引っかかった。メディアによる戦後70年特集、祖父母の戦争体験談、旅行で訪れた広島、長崎、沖縄で見た戦争の爪痕。どれも痛ましい記憶としてだけではなく、ほんのり現実味を帯びている気がしてならなかった。

ひとは戦争したって謝らないし、学べないことの方が圧倒的に多い。だからこそ、せめて忘れるべきじゃない。戦争や今の世の中のことを知り続けることが大事だし、もっと話していいのではないか。そこに饒舌さとか、かっこよさなんて必要ない。ニュースやSNSを追うようになると、そんな感情が強くなり、安保法制に対する違和感が増していった。

今ここで何もしなかったら、きっと後悔する。

9月18日、私はデモに参加した。
歩道は数えきれないほどの参加者と警察官で溢れ、一歩踏み出すのもやっとの状態だった。大量の警察車両から出てくる排ガスと人々の汗の臭いが混ざり合い、仕事終わりでぼんやりしていた私の目も冴えた。数か所ある簡易ステージで政治家や活動家がスピーチしていたが、それ以上に道端にいる参加者たちのコールが鳴りやまず、街全体がカオスだった。

人ごみは嫌いだし、本来なら早く帰って休みたい。ここで抗議をしたところで、法案は数の力で押し通されてしまうだろう。だけど、今ここで何もしなかったら、ものすごい後悔する気がした。ここで声をあげる人たちと同じように、それだけ私はこの法案も戦争も怖かった。

もう誰かの想像力だけに偏った政治は立ち行かなくなっている。それは、何よりも先の大戦が教えてくれたこと。だから私は反対した。
翌日、安保法制は強行採決され、デモも終息した。政治を見ていて、初めて悔しいと思った。

街は、あのデモが幻だったのではないかと思うほど静まり返っている。変わらない光景といえば、官邸前に配備された大量の警察官くらいだ。それでも時折、小さなデモが開かれて誰かが怒っている。窓を閉め切っていても、テレビがついていても、その声ははっきり聞こえてくる。そして、私の怒りも消えていない。