私は神奈川県のとある市に生まれ、2019年にイギリスに移住するまで、約25年間をそこで過ごした。国際結婚をして、海外移住をした人に地元を語る資格なんてないのかもしれないが、それでも私は地元を心から愛している。

小さい頃の思い出がつまった「秘密基地」や「学校の畑」

小学生のころ、親がたくさんの習い事を経験させてくれたが、放課後時間を見つけては友だちとよく遊んでいた。中でも、家が近い友人2人とは特別仲が良く、小さな野原に自分たちだけの秘密基地を作って、頻繁に足を運んではそこでの時間を楽しんでいた。

秘密基地とはいっても、すぐそばに道路が通っていたため、危なくもなく、のびのびと自分たちの秘密基地で遊べていた。綺麗な石や花、葉っぱを集めてきて並べたり、ただそこで話したり、特別なことはなにもしなかったが、それでも自分たちだけの秘密基地で過ごす時間は、とても楽しかった。

また、小学校のころの思い出のひとつに、畑作業がある。私の学校は全校生徒が1,000人くらいのいわゆるマンモス校で、学校の敷地内は校舎でいっぱいだったこともあり、児童の学習の一環として使う畑は、校外の道路を挟んだ向かいに独立してあった。小学校1年生から6年生まで、学年ごとに区画が決まっており、生活(理科)の授業で様々な野菜を育てることができる畑だった。

私は親戚が農家だったこともあり、野菜や果物作りにはもともと興味があり、生活の授業で植物の生長を観察したり、世話をしたりすることが大好きだった。そして、給食の一部で自分たちが一生懸命育てた野菜を食べたときには、喜びと満足の気持ちでいっぱいになった。

大好きだった秘密基地と学校の畑、昔の面影は跡形もなくなっていた…

しかし、大学生になったころ、これらの秘密基地と畑についてショックな出来事があった。ある日、何の気なく近所を散歩して偶然小学校のそばを通りかかったとき、畑だった場所一面に分譲住宅が建っていたのだ。草木の緑や土の茶色はまったく見えず、昔の面影は跡形もなくなっていた。しばらく小学校の方へ行くことがなかったため、いつそれらの分譲住宅が建ったのかはわからない。寂しさが心に残った。

そして「もしや?」と嫌な予感がし、秘密基地を作っていたところへ足早に向かった。思った通り、秘密基地を作っていた野原にも、分譲住宅がいくつも建てられていた。予想はしていたものの、ショックですぐに動くことができなかった。

それは、“単に景色が変わった”では終わらない感覚だった。景色が消えた。さらには、私の思い出に、誰かから勝手に蓋をされたような感覚だった。「秘密基地? そんなものはじめからなかったんだよ」と誰かに言われたような感覚。言葉は強いが、暴力的といってもいいかもしれない。

悲しい気持ちのまま、しばらくその場で立ちすくんでいると、一軒の住宅から若い夫婦と小学生くらいの子どもの親子3人が出てきた。私の地元の市は『住みやすい町ランキング』などでいつも上位にきており、また東京への通勤にも便利なので、県外から子どもを連れて引っ越してくる人が後を絶たない。きっと、この家族もそんな人たちの一部だろう。高齢化が進む日本において、若い世代が増えることは喜ばしいことだ。しかしそのときの私は、素直に喜ぶことができなかった。

変わっていく「地元」の思い出とどのように向き合えばいいのだろう

この家族は、今自分たちが住んでいる場所にかつて誰かが秘密基地を作っていたことを知らない。子どもとはいえ、誰かがそこで楽しい時間を過ごし、大切な思い出を作った場所の上に、彼らは住んでいる。私の思い出の上に住んでいる。

そんなことを考えていると、自然と涙が溢れてきた。そんな私を横目に、彼らはそばを通り過ぎていった。彼らはいぶかしげに私を見ていた。それは当然だろう。

もちろん、そこに家を買い、引っ越してきた家族は何も悪くない。そして、野原であった土地を売って分譲住宅にしようと考えた土地所有者も悪くはない。皆、事情があるのだ。頭ではわかっているものの、自分の気持ちは千々に乱れるばかりだった。

その数年後、私はイギリスに移住した。コロナウイルスの感染拡大の影響で、いつ地元に帰ることができるかわからない。きっと、様々なことが変わっているだろう。変わらないものなんてないのだ。そのこともわかっている。

しかし、その“変わったものや変わった景色”に対して、自分がどんな気持ちで向き合えばいいのか、まだ答えはわからずにいる。