厄介な人ばかり好きになる。だけどその厄介な相手にも「厄介な人に好かれた」と思われているに違いない。ユーミンが「恋は事故のようなもの」とインタビューで言っていたけど、好きになることより、好かれることの方が事故に近いのかもしれない。私はブレーキとアクセルを踏み間違えることが多い。というか、恋にブレーキがあるのを知らなかった。私の車はアクセルしかない。どうやら本当に厄介なのは私の方だった。

「好意がこわい」と逃亡された

大学2年生の冬、好きな人に告白したら「好意がこわい」といわれて逃亡されたことがある。これは、その時の話。
カラオケで、男友達に告白をした。そしてフラれた。フった彼は「好意が怖い」「友達にも戻れないし、もう会えない」と言ってパニックを起こしていた。私は「ごめん!なしにしよう!なし!友達に戻れるよ!」と取り繕ったけど、彼はエレベーターを呼ぶ間、私の顔を見ては「無理だ…」と繰り返した。エレベーター内でも私とは顔を合わせず、壁に向かって張り付いていた。そのまま私に背を向け、駅へと向かう。いつも集まる共通の友人達もいたので、「皆と会う時はなんとかならない?」と言ったけど、「そっちが良くても、僕にはできない」と言われるだけだった。こうして私はフられた。結局彼とは関係がこじれてしまって友達にも戻れず、シャットアウトされてしまった。

関わらないでと言われたら、関わってはいけない。だけど私はつい努力をしてしまう。「好意がこわい」の意味を知りたくて、冬から春にかけての6か月、心理学を猛勉強してしまった。本を読み漁り、私は「回避型」という人間関係における傾向(愛着スタイル)を見つけた。「回避型」は、過去の人間関係の失敗から、親密な関係を求められると傷つくことへ恐怖が働き、そこから逃避してしまう、というものだ。その特性の中に「人からの好意を回避する」という記述もあった。しかし、別に彼は私に心を開いてもらいたいと思っているわけではないし、傷つくことが怖くて私と付き合えないわけでもない。心理学を学んだところで、彼との関係性は特に改善することもなかった。

告白されることは、エネルギーの爆撃を受ける行為

しかし、そんなことはどうでもいい。大切なのは心理学よりも、彼がそういう「気持ち」になったことの方だった。考えてみれば、人からの熱烈な好意は恐ろしいものだ。告白されるということは、エネルギーの爆撃を受ける行為だ。愛の攻撃しか仕掛けて来なかった私は、好意はプレゼントくらいに思っていて、あまりにも無神経だった。

同時に、彼が何に傷ついていたのかもわからなかった。今なら少しわかるけど、彼はたぶん、私を傷つけたことに傷ついていた。

「自分がフッた女の子と仲良くなんてできないでしょう」
と言ってくれた、優しい彼の気持ちを、どうして私は大事にできなかったのだろう。

その繊細さが好きだったのに、人を傷つけたくなかった彼に手を汚させたのは私なのだ。「私の愛を刺して!切り付けて!いいの!」と、突然裸の心を出してこられても、別に相手は誰のことも切りたくない。人の心を殺したくない人に、ナイフを握らせてお前が殺せと、恋の殺害強要をしてしまった。告白とは、そういう行為でもあるのだ。

「傷つけることへの傷つき」にもっと敏感になりたい

私もまた自己肯定感が低く、私をフることで傷つく人がいるなんて思わなかった。自分の痛みに鈍くなると、他人の痛みにも鈍くなる。

これまで友達として築いてきた関係性を、恋愛にしようと一方的にぶった切り、お前が私を殺せというのはあまりにも酷だ。出たくもなかった決闘に勝手に引きずり込んでごめんなさい。私は好きな人をもう返り血で汚したくない。「傷つけることへの傷つき」にもっと敏感になりたかった。自分の感情に人を巻き込むことのリスクを、わかっておきたい。

~今回の美人の学び~

好きな人を返り血で汚さない。恋の殺害を強要しない。
心理学より、心のコミュニケーションを大事にすべし。