aikoを聞いて電車で号泣する中学時代。失恋に溺れ、酔いしれた。
恋に誤った努力を続けてきたという、ライター「美人」。 恋愛は相互のコミュニケーションの上で成り立つものなのに、受験勉強のようにねじり鉢巻きを巻いて、恋の赤本を解こうとしてしまう。 愛の七転八倒の末に辿り着いた答えや、たどり着けてないことを赤裸々ど真ん中に綴ります。
恋に誤った努力を続けてきたという、ライター「美人」。 恋愛は相互のコミュニケーションの上で成り立つものなのに、受験勉強のようにねじり鉢巻きを巻いて、恋の赤本を解こうとしてしまう。 愛の七転八倒の末に辿り着いた答えや、たどり着けてないことを赤裸々ど真ん中に綴ります。
第一志望以外の恋愛を受け入れられなくて、何度も願書を出し続けてしまう。受からない受験を受け続け、無駄な努力をすることをやめられなかった。手段と目的が完全に入れ替わっていた私は、付き合うことより好きでい続けることが目的になっていた。絶対に振り向いてくれない相手に恋をすることは、創作に近い。思春期の私が長年片想いしていた好きな人は、「アイドル」や「二次元」のような存在にしてしまった。私がしていたつもりの「恋愛」は二次創作の世界に近かった。そして、私は「失恋」という物語を、自分で紡ぎ出していた。
14歳の頃「恋愛で涙を流す自分」大好きだった。自分が夢中になっている恋愛を盛り上げたくて、見向きもしてくれない相手を思いながら、失恋ソングを聞いて電車の中で毎日のように泣いていた。aikoを聞いて大江戸線でボロボロ涙を流した。定番は「ナキ・ムシ」という曲で、ラストの「涙のしずくを~」ということばをきっかけに涙が流れると、曲の世界とリンクして、なかなかイイ感じだった。
痛い中学生の私は「泣いちゃだめ…!でも…まっすぐ前を見ていてもポロポロ流れるこのきれいな雫は何!? あぁ!こんなにも彼が好きだったのね!」みたいなテンションで生きていた。
片想いにおける失恋は、往々にして相手の世界では何も起こっていない。告白もしたけど、相手は私のことは見向きもせずにどんどん他の可愛い子と恋愛をしていく。私はそのたびに傷ついて涙を流す。だけど向こうにとって私は告ってきたモブでしかない。私の世界では私がヒロインで彼がヒーローだけど。
好きな人に「ブス」だと言われても、相手を好きでいた。愛を貫いてると勘違いしていた。14歳の時点で好きな男の子の選び方がなってない。泣かせてくる人が好き、というのはよくない。でも、私は自分の物語の主役だから、失恋という悲劇の中にはずっと浸ってられた。傷つけられてたけど、それが好きだったのだと思う。失恋は、相手とのコミュニケーションが何一つ始まってなくても、刺激だけはもらえる。あとは物語を紡ぐだけで、恋愛経験値が溜まった気分にはなる。
当時の私は、なぜか恋愛マスター的な気分で生きていた。
友達が失恋したと聞けば、LINEで相談を受けながら、状況に合う失恋ソングのURLを送る失恋DJとして暗躍していたりもした。相手に「泣いちゃった」と言わせたら、ガッツポーズだ。
友達がヤフー知恵袋に投稿していた恋愛相談に、勝手に匿名で回答したりもした。
中学生が「中学生の初々しい恋という所でしょうか。」とか言いながら答えていてめちゃめちゃ面白い。ベストアンサーをもらい、翌日「すごく親切な回答者の人がいてね!」とキラキラした目で言われた時は、申し訳ないと思いながらも、ニヤリとした。
アメブロに自分の恋愛のエッセイを赤裸々に書いていたりもした。今とやっていること自体は変わらない。バレンタインにフラれたエピソードは学年の女子達から「泣いちゃいました!」のコメントで湧いた。今思うと、これも二次創作に近かったのかもしれない。
しかし、aikoが歌ってたみたいなボーイフレンドはできなかった。あんなに泣いても、ちっともaiko側の世界に行けなかった。桜の時もなかったし、テトラポットにも上れない。結局、私は自分が好きで、自分の妄想でいっぱいだった。一人で恋愛を盛り上げる努力をしてしまった。傷つけてくる人への「好き」を貫くことで、愛の絶壁を登ることに謎の興奮を見出してしまった。うまくいく恋愛は、馴染むように自然と惹かれあうはずなのに、「がんばりたい」欲が爆発してしまって、なぜかケガさせてくる山ばかり登ろうとしてしまう。私は刺激に恋をしていたのだ。
aikoで泣いても、aiko側の世界には行けない。
恋愛には「相手」が必要。刺激に恋をしない。
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「私」が持つ違和感を持ち寄り、社会を変えるムーブメントをつくっていくことが目標です。
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