“メディア”という言葉から連想することは、テレビ番組や雑誌、新聞。
高校生の頃までは、特に深くどう思うってことはなかった。業界としては華やかなイメージだけど、きっと私にはあんまり関係ないな…そう思っていた。
私が現地で見た9.11の後景は、ニュースで観るものとは少し違った
大学1年生のとき、先輩が教えてくれた一番大きい講堂で行う授業をとった。メディアというキーワードも科目名に入っていて、外部講師を招いての輪講形式。「人数多いし、試験もそんな難しくないし、楽だよ」と本当によくある理由で勧められて、履修することにしたのだ。
初回の授業、コーディネーター役の教授が演台に立ち、話し始める。普通は評価の形式やぼわんとした全体概要を話す退屈な時間で、私は混雑する後ろの方の席で履修要覧を前にぼーっとしていた。でも、そのオリエンテーションでの“講義”に特に期待もしていなかったからこそ印象に残っているし、おぼろげながらも10年たった今でも覚えているのだ。
その教授が話したことは、9.11-アメリカ同時多発テロのことだった。
みなさんの多くがもちろん知っているであろうこの事件。「9.11」といわれたら、どんな情景を思い浮かべますか? きっと、あの何度も何度もニュース番組で流れていた高層ビルに飛行機が突っ込んでいく映像でしょう。多くの人にとっては、あの光景が9.11です。
偶然にも私は、そのときアメリカ、しかもニューヨークにいました。発生直後の大混乱、事件が世界に与えた衝撃は大きいものだったし、被害者も多く痛ましい事件です。
ではそのとき、現地ニューヨーク市民はどうだったか? 私の目に映ったのは、ホコリだらけになりながら歩いている帰宅困難者の姿です。みんなもくもくと、きっとそれぞれの自宅に向かって、ひたすら進んでいました。僕が実際見たものは、彼らの青白い無表情な顔。私にとっての9.11とは、その光景なのです。
「メディア」は情報の一部分が切り取られて、拡散されていると思う
飛行機がニューヨークのトレードマークともいえる高層ビルに突撃し、もくもくと黒煙を上げている。その映像を観て、報道番組の偉そうな人の解説を聞いて…たったそれだけで、その事件を知っているというのは、私の思い上がりだったのかもしれない。
亡くなった数千人は、私と同じようにそれぞれの日常があって、人生があった。帰宅困難者やその場に居合わせた市民にも、それぞれの現実と事実があった。私は驚きと、少し恥ずかしい気持ちがあって、バツが悪くなったのを覚えている。
世界中で報道されていたこの事件は、メディアが情報をあからさまに捻じ曲げているわけではないだろう。それでも、やはり衝撃的だったり、わかりやすい情報の一部分が切り取られ、拡散されていると思う。
この件に限らず、みんなが同じ反応を示すニュースは、きっと提供しやすい。発信側も炎上するかどうか事前に見極められるし、反響が予想した通りなら、安定した成果を出しているとも見てとれる。
最近は「SNSで話題!」という記事の見出しも多く見かけるようになったし、ネットでバズっている動画を集め、わざわざ構成しなおすようなテレビ番組も増えた。たった数ページ、数十秒でもものすごく多くの人が関わっているのであろう大衆メディアは、届けるまできっと大変で、そういうものを選びがちなのかなと思う。
でも、すでに一度触れた情報は、自分にとっての新しいこと=NEWSにはならないから、つまらなく感じるのも正直なところある。雑誌やWEB記事だって、なんとなくどこかで聞いたようなワードが多くなってきた気がするが、それも“情報過多”な現代社会といってしまえば簡単だ。
ちゃんと情報を伝える。そして、受け取るってかなり難しい
こんなにも情報があふれた今の世の中。地域や言葉の壁さえも軽々飛び越えて、色んなことが目に、耳に、頭に入ってくる。重要度はときに置き去りに、わかりやすいもの、話題になるものから拡がっていく。
ちゃんと伝える、それから受け取るってかなり難しい。正しいか、正しくないかも立場によって変わる、センシティブな話題も近頃は増えた。少なくとも個人で発信することが容易になった時代、しっかりした基盤と情報提供ルートがあるからこそ、多様な面から見えた事実をメディアには届けてほしいと思う。
それが誰かにとっては退屈な情報でも、他の誰かにとってはインパクトのある真実かもしれない。