「異性 好きになったことがない」。私が今までで一番多く検索した言葉。といえば嘘になるかもしれないが、おそらくベスト10には入るだろう。

検索画面に表示される同じ悩みを抱える人の存在にほっとした

解決策を知りたいわけではなく、ただ、同じ悩みを持つ人がこの広い世界のどこかにはいる。それを確かめたいだけ。確か、最初は中学生の頃。今のように多種多様なSNSが溢れ、誰でも気軽に考えを発信できる時代であれば、もっと多くの仲間を見つけられただろう。ただ、その頃はまだ自分の携帯電話もなく、家にあるデスクトップコンピューターを使ってネット検索をするくらいしか情報を入手する手段がなかった。それでも、検索画面に表示される同じ悩みを抱える人の存在にどれだけほっとしたか。

小学校も高学年になれば、周りは「好きな子」「●●と〇〇が付き合ってる」そんな話題を楽しみ始めた。ついこの間まで、昨日のアニメやコント番組、ハリーポッターの話をしていたというのに。私も例に漏れず、毎日のように好きな人は誰かを尋ねられ「いない」と答えては、恥ずかしくて隠していると思われる、そんなことを繰り返していた。挙句の果てには勝手に「〇〇やろ」と好きな人を宛がわれる始末。

「好き」は自分の中に見つからなかった。いつか分かるだろうと思った

あまりに聞かれるものだから、小学生の私なりに毎日毎日考えてはみたのだが、友達が言うような「好き」は自分の中に見つけられなかった。それはテレビや映画、本の中の登場人物がよく口にしているあれで、どうにも掴み心地のない、天国や幽霊、魔法、サンタ、そういったジャンルと同じもののように感じていた。まあ、いつか分かるものなのだろう。そう思って、まだその頃は然程気にはしていなかった。

ただ、そのいつかは一向に訪れず、どうやら「ふつう」じゃないらしいと気付き始めた私は冒頭の単語を検索フォームに打ち込むことになった。仲間の発見から数年、とはいえ現実世界ではそんな人には出会うこともなく、小さなもやもやは年を経るごとに大きく、何故かちょっとした引け目、罪悪感に変わっていく。人を好きになれないのは、悪いことなのではないか。何か精神的な欠落なのかもしれない。

他人を好きにならないことを含めて、自分を認められるようになった

そんなこと誰にも話せず、恋バナの相槌や好きなタイプ、恋人の有無を聞かれた時の返事ばかりレパートリーが増えていった。そんな中、ひょんなことから(突然アメコミにはまり海外のインタビュー記事やニュースに触れることが多くなっていた)「QIA」、そして「アセクシャル」と呼ばれるセクシュアリティがあることを知った。明確な定義があるわけではないが、他者に対して性的欲求も恋愛感情も抱かないセクシュアリティとされることが多い。この言葉を知った時、比喩ではなく私の目の前はぱっと明るく開けた。

これやん。それまでずっと、何をするにも心のどこかで引っ掛かっていたものが取れ、他人を好きにならないことを含めて自分を認められるようになった。随分月並みな表現だが、何のことはなく「ふつう」に絡めとられていたのは、私だった。とはいえ今もまだ、この一面を見せることはないまま、同僚として、部下として、娘として生きている。それでも、そのたった一つの言葉が拡張した世界、毎日を進む私の足取りは今、ずっとずっと軽い。