小さい頃から「ふつう」に悩まされてきた。

私が育ったのは、「ふつう」は好きな人ができて恋人ができて結婚して子供を産む。それが「ふつう」。そういう価値観がまだ根強い土地だ。

私とあの子の「好き」は意味が違う。男子も女子も、同じ友達なのに

遡ること小学2年生のころ、クラスメイトに「好きな人いる?」と聞かれて、私はなんの気無しに当時見ていたドラマの主演のアイドルの名前を答えた。すると彼女は「えー!アイドルと結婚できると思ってるの?」と、バカにするみたいにクラス中に言いふらした。いや、そういうわけじゃないんだけど。
私の「かっこいいなぁ」レベルの好きを、彼女は恋愛だと勘違いしていた。

小学校も高学年になるにつれて、周りの子達はませていく。
私もオシャレには興味を持ったが、近所には男子が多かったし、習い事の友達も男子2人と女子1人という環境だったから、あんまり男女というところを意識してなかった。だって、友達じゃん。私にとっては女子も男子も等しくそうであった。

いつかできると信じた好きな人は、いつまでたってもできないまま

6年生のころ、私はAくんという男子と3ヶ月ほど連続で同じ班になった。3年間同じクラスだったし、席も近ければ喋る。テレビの話やテストの点数で競うとかそのくらいの関係。
それを面白く思わなかったのは、Aくんに好意を寄せていたクラスメイトだった。昼休みに空き教室に呼び出されて「Aくんのこと好きなの?」と3人くらいに囲まれた。
今思っても怖すぎる…学園ドラマの世界かよ…。私はそれを否定して、クラスメイトの1人が「私はAくんのこと好きなんだよね」と言ってその日は終わった。
Aくんはずっとただのクラスメイトにすぎなかった。

好きな人は「中学生になれば」「高校生になれば」できるのだと思っていた。それでも、中学生になっても高校生になっても私にそういう感情が芽生えることはない。生徒会長にアタックしにいった子、隣のクラスの人と付き合った子、クラスメイトとノリで付き合った子。友達にそういう子はいたけど、私自身は興味がなかった。

友達は私に言う。「好きな人いないの?」「どんな人がタイプなの?」と。そういう人が誰にでもいると信じて疑ってない、悪気のない発言。私だって、好きな人や恋人ができるのが「ふつう」だと思っていた。だから好きな人ができない自分に焦りがあった。
結局、その時も「大学生になれば」と未来に希望を託した。

恋愛感情がなくても、「落ちこぼれ」じゃない。目の前が明るくなった

だけど、大学に入っても私に好きな人ができることはない。
デートでここにいったとかなんとか、周りにはいろんな風に恋愛を楽しんでる人がいて、なんだか取り残された気さえした。これまで十数年、「恋愛」という必修科目を落とし続けた私は落ちこぼれなのかもしれない。

"他者に対して「恋愛感情」や「性的魅力」を抱かない"というセクシュアリティがある知ったのはそんなときだった。

LGBTは知っていた。同性を好きになる、同性も異性も好きになる、生まれながらの性に違和感がある。でも、メディアで報じられる性的少数者は、たいてい「好きな人」がいることが前提だった気がする。だから、「恋愛感情がない」という恋愛指向があるなんて思ってもいなかった。

私の場合、恋愛感情も性的欲求も誰かに抱いたことはなかった。
どちらも抱かない人のことを、主に日本では広義的に「アセクシャル」と言うことがある(恋愛感情はあるが、性的欲求がないのは「ノンセクシュアル」ということもある)。世界的には、他者へ恋愛感情を抱かない人のことを「アロマンティック」、恋愛感情はあるが性的欲求を抱かない人のことを「アセクシャル」というのが一般的だとか。
十人十色の世の中、そういうカテゴライズすることはよくない!と思う人もいるかもしれないが、私は「他にもそういう人がいる」と知ってほっとした。

「好きな人がいること」という「ふつう」に悩んでいた私は、急にそれから解き放たれたのだ。恋愛は人生の必修科目じゃなかった!選択科目じゃん!なんだよ、早く教えてくれよ。それなら他に自分のしたいことを人生かけて履修することにしよう。急に重い荷物が降りたような気分になった。

結婚も恋愛も出産も、人生の「履修科目」を決めるのは私自身

自分自身の壁は乗り越えた。けれど、まだ越えなければいけない「ふつう」がある。
端的に言えば家族、親戚のもつ価値観。歳の近い親戚の結婚式に行くと「次はあなたかな?」とみんな言う。「若いうちに子供産まないと、体力もたないよ!」と話すのは40代で出産した叔母だった。
悪気なんてないその言葉を私は笑って聞き流す。

いつか「結婚するのが普通」「恋愛するのが普通」なんて言葉がなくなればいいと思う。
結婚も恋愛も出産も、人生の履修科目を決めるのは他でもない私自身だ。