私の中で「ふつう」もかなり呪いの言葉だけれど、同じくらい嫌な言葉がある。
「ありきたり」だ。

ありふれている、面白くない、だから価値がない…
そんな風にこの言葉を捉えていたし、自分自身もその通りだと思って生きてきた。
なぜなら、今の私は今までの人生の分岐点において選ぶべき選択肢を自分で選べなかった・選ばなかった結果、好きでないものばかりで構成されているからだ。
好きで選んでいない仕事、家、人間関係。好きでなくとも過ぎゆく年齢。好きでない性格、容姿、能力。
私は「ありきたり」な自分と人生に、ほとほと疲れ切って、飽きてしまっている。

唯一自分の中で誇れるものがあるとするなら「自分の好きなものに対しては、時間やお金を惜しまずにとことん追い求める」ところだろうか。
仕事や睡眠以外の時間はほとんど好きな舞台や映像作品や音楽などを摂取し、感想や考察を書いてはネットに上げている。
これはおそらく私の得意とすることの一つだし、たまに反応をいただくと少しだけ自分の励みになっている。

より鋭く客観的な視点を沢山持ちたい。
より的確で豊かな言葉を綴りたい。
それはぜんぶ、私の「好き」に少しでも近づきたいという気持ちだけで突き動かされている。
これだけは譲れないことで、自分なりに頑張りたいと思って細々と続けていた。

ある曲との出会いをきっかけに「ありきたりな女」を名乗るように

7年前に衝撃的な出会いが訪れた。
元々大好きだった椎名林檎さんの新曲のタイトルが『ありきたりな女』だった。
私が好ましくないと感じる言葉で名付けられたそれは、予想を裏切って美しく、強く、いとおしいと思う音楽だった。
この曲の歌詞通りの解釈は話が逸れるので割愛するけれど、ミュージックビデオの中の、台本を手に突如「人生」という舞台の上にに放り出されたある女に、自分を重ねて勝手な解釈で何度も聴いていた。

次第にSNSのアカウント名をはじめ、ネット上で自分を「ありきたりな女」と名乗って、各所に投稿をするようになった。
この名前には「自分は結局この程度の人生で、ただの人間で、女でしかなかった」という自分に対しての皮肉と、
それでも幕が上がった舞台を生きるように「人生は演劇なんだ、世界は劇場なんだ。嘘がいつか、本当を生むんだ」とどこか信じたい希望と、
両方を混ぜて忍ばせる気持ちで名乗り始めた。

私が「ありきたりな女」を続けて数年、ありがたいことに共通の趣味で繋がった知り合いが増え、
時折嬉しくなるような感想や反応をいただいたり、実際に会うようになって交流が続いたりするような人も増えてきた。

私の視点や考えを面白がり、こだわりに気付いてくれる人がいる

現実では自分の「好き」ばかり話し続けたり押し付けたりしてしまうと、それはただの迷惑な人になってしまう。
それでも、共通の話題で延々と盛り上がることができて、私が着目した視点や考えを面白がってくれて、
書き連ねた表現の細やかなところまで気付いてくれて、自分の中にも素晴らしいセンスを持っている人たちに出会うことができた。
それは私にとって切実に救いになったし、ありきたりな日々に少しだけ楽しみが増えた。

そうして知り合った中の一人に、「『ありきたりな女さん』って長いから…『ありさん』でいいですか?」と聞かれたことがある。
私にとっては想定外だったし、まあその方が呼びやすいよねーという軽い気持ちでその時は頷いたのだけど、その後自然とその呼び名が定着した。

更にその後、なんなら周りの多くの方が私より年上の素敵なお姉さま方だったせいか、気付けば「ありちゃん」で通っていた。
ありちゃん…「ありきたり」の「あり」なんだけどな…でも「あり」んこみたいで語感がかわいいし、なんかいやじゃないな…と、なんだかんだで違和感は徐々に吹き飛び、しまいにはなかなかお気に入りになった。

今でははじめましての方には、「『ありきたりな女』と申します。『あり』って呼んでください」と自分から話しかけている。

私を認めてくれる人が付けてくれた名前を名乗る時の私が好き

私は今、「あり」とか「ありきたりな女」とか名乗っている自分が好きだ。
自分の好きなものや長所と思っているところを見て、認めてくれる人たちが付けてくださった名前だ。
「好き」を好きと言えて、「好き」のためには死ねると思うくらいにそのことを突きつめられる、もう一人の誇らしい自分の存在がここに生きていると、自分自身でも確かめているような気になれる。

本名でない存在こそ本当の自分だと思っているなんて、「普通」じゃないのかもしれない。
でも、今のところ私が私らしく居られているからそれでいい。
「ありきたりな女」じゃなくて、とても面白いじゃないか。