多様性という言葉でまとめられた優しい世界が、猛スピードで作られている。

障害があれば決まった施設でしか働けない、なんてものは、今となっては考えられない話。
出来る仕事を出来る範囲で与え、それに見合った出来る限りの給与を渡し、自立を促す。
適齢期の男女は結婚し、子どもを産み、なんて時代も終わった。
男性同士が手を繋いで街中を歩き、元カレの話をした後に今カノの話をする人がいる。
おまけにそれぞれの性格のウィークポイントにまで病名がつけられる時代だ。
"お互いを認め、お互いを尊重する"
そういう意味では、優しい社会に近づいているのではないかと思う。

けれど、そんな社会が作られる中で暮らしやすくなった人もいれば、逆に暮らしにくさを感じるようになった人もいるはずだ。
例えば、私のように。

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以前の職場の店長は同性愛者、いわゆるゲイと呼ばれる部類の人間で、その界隈に触れたことがなかった私にとっては刺激の連続だった。
ゲイ専門の出会い系アプリがあること、ゲイ同士は言わずともお互いがそうであるということが分かること、結婚というゴールまでが厳しすぎる分、男女であればよく聞く年収や学歴云々かんぬんはなく、ある意味純愛の極みだということ。
店長は口を開けば男の話で、相手の男性の言動に一喜一憂する姿は可愛かったし、カフェの常連の後ろ姿を見つめ、ため息をつく店長の姿は恋する乙女そのものだった。

自分の性を大っぴらに公表している店長だから、私たちも口外していいものだと思っていたら、お客さんにそれを言った学生アルバイトの子に、
「厄介な性なんだから言わないでよ!配慮が足りない!」
と、ブチギレているのを見たことがある。
確かに本人が隠しているのであれば言わないほうがと思うけれど、これだけ色んな人に公表し、お客さんのカップにハートマークを書いているのに、こういう時だけそんなふうに言うのだなと思うと正直面倒だなと思ってしまう。

その職場にはもう1人、対応に悩む子がいた。
自称ADHDの彼女は、ミスをするたびに、
「私はADHDだから仕方ない」
の、一点張り。
お医者さんではないから詳しいことは分からないけれど、そこそこいい大学に行って、それなりに学生生活を楽しむ彼女がADHDかと言われると、素直に頷けない部分があるし、個人的に彼女の働きぶりを見ていると、メモを取らなかったり、注意されているのに他のことをしながら流し聞していたりと、ただの彼女の努力不足のように思えてしまう。

とはいえ、こんな世の中だから下手な注意をするわけにもいかず、「彼女はADHDだから、度重なる遅刻も日常的に怒るミスも注意をしてはいけない」という結論になり、心を無にして彼女の突然の欠勤やミスのカバーを行わなければならないのである。

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そして職場が変わって現在。
ここにも障害を持つ人がいる。
会社の偉い人から、
「彼女は少し病気があるから」
と、事前に話は受けていたものの、詳しい病名などは教えて貰えないまま、初めましての挨拶に行くと、
「これからよろしくね」
の、代わりに、
「気持ち悪い顔しやがって」
と返ってきた。
働き始めて2ヶ月。
どうやら彼女は人より少しキレやすい病気らしいということだけは分かったけれど、それにしてもなかなかタチが悪い。
「新人さんいじめがちだから〜」
そう周囲は言っていたけれど、
すれちがいざまに、
「喋り方が人間じゃないんだよ」
「存在自体が邪魔なんだよ」
と、言われ、私が綺麗に拭いた容器たちは、全て拭き終わった瞬間に床にぶちまけられる。
一種のいじめではないか?と思うけれど、相手が障害者である以上、そこに言い返してしまうと私が悪者になってしまう。
おまけに彼女はそう言った行動を2人の時にしかせず、皆がいる前では黙って私の前を通り過ぎていくのである。

確かに違いを認め、みんなが穏やかに過ごせる社会作りは大切だと思う。
けれど、誰かが楽になればなるほど逆に生きづらくなる人もいて、逆に今まで少数派だった人が、今まで多数派だった人に理解を示し、配慮する必要もあるのではないかと思うけれど、それを言い出すと一種の戦争が起こってしまうのではと思うし、この多様化を認めよう!という素晴らしい社会作りは果たして美しいゴールに辿り着くことが出来るのだろうかと疑問しかないし、多様性と言われれば言われるほど、元普通の人の私は段々と生きづらさを感じるようになったのも事実である。