日本庭園や茶室に案内すると、彼らはみんな息を呑む。

“Amaging!”と驚いてくれる。旅行気分で浮き足だった空気の茶室で、今日、あなた達のホストをさせてもらうなつめですと、自己紹介をする。茶道についてジョークを交えて説明した後、私が柄杓を取ると、途端にゲスト達は静まり返り、私の一挙手一投足を食い入るように見つめる。

そして、最後に“Thank you for watchingとお辞儀をすると、途端に魔法が解けたようにゲスト達は一つ深呼吸をして、また時間が進み始める。

私が今まで勉強してきた英語が伝わることが、同年代には魅力的に映らないらしい茶道が彼らの胸を打つことが、私のこの上ない喜びである。

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英語の成績はそこそこいい方だったが、それと実践で使えるかは別だ。海外の人と話す機会すらなかった大学1、2年生の時、私は言葉の通じない人達が、怖かった。海外の人は日本人より単刀直入に物を言うと聞く。日本人より周りの人のことを気にしなさそうだ。治安も日本より悪そうだ。そんなステレオタイプに縛られていた。

でも、この茶道のアルバイトを始めてからあらゆる認識が変わった。第一に、観光客達の多くが、どこか不安そうであったり、遠慮がちであったりするという点だ。

カタコトの日本語で、スミマセン、アリガトウ、コンニチハという人たちは、私がこれで合っているかな、意味が伝わるかなと思いながら英語を話すのと同じように、はにかみながら私に話しかけてきた。靴を脱ぎ忘れていることに気がついて慌てふためく人たちも一定数いた。我が道をいく、良くも悪くも自信に満ち溢れた外国人像はあっという間に崩れ落ちた。

また、彼らはとても繊細な感性を持っていて、私のお点前や説明する茶道の歴史や文化に深く感動してくれた。そもそも興味があって予約してくれているのだから、無感動というのが少ないのはある程度必然的なのかもしれないが、それでも、セッションの後に熱心に質問してくれたり、興奮して感想を言ってくれたり、時には泣いてくれる方もいたりした。

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茶道なんて伝統文化ダサいと言われることも、茶道をしているだけで真面目扱いされることもなかった。

確かに文化は違うし、言葉だって、日本語の時のようには正確に細かなことまでは伝えられないし聞き取れない。英語と日本語では言葉のニュアンスやリズムが違うから、例え言葉にできても、自分が伝えたいようには伝わっていないことだって多いだろう。

けれど、少なくともお点前をしている間は、私達は同じ時を共有している。ピンと糸が張ったような空気の中で、道具同士が生むわずかな音や炭の温かみ、柔らかな日差しを私達は共に感じている。

いまだに上手く伝えられない、汲み取れないもどかしさに苛まれる時はある。でも、私にとって海の向こうの人たちは怖い存在ではなくなった。おそらく彼らと再び会うことはないけれど、その分、この一時を大切に、私は茶道で世界とつながる。