昔から、自分の名字が、あまり好きではなかった。
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私の名字は、いわゆる「珍名」の部類に入るもの……だと思う。ネットで調べてみたら、全国でも7000人くらいしかいないらしい。しかもその7000人も、約70パーセントが父の地元に集中している——のだそうだ。
ネットの情報の信憑性はともかく、確かに私は、父の地元以外で同姓の人に会ったことが一度もない。
そんなくらいのものだから、口頭で名乗るときは何度も、「え?」と聞き返されるのが嫌だったし、書面で書いても、微妙に読む人に緊張を与えているのを感じるのも嫌だった。
……嫌だ、というより、面倒だなあという感情かもしれない。シャチハタも、気軽にどこででも手に入るわけでもないし。サトウさんなんかは、ずいぶん楽そうでいいな、ということを、手前勝手にも思ったりなんかしていたのだ。
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20歳くらいのときのことだ。友達の1人が『文豪ストレイドッグス』というマンガにどハマりしていた。彼女の「推し」キャラは太宰治というキャラクターで、そんな彼女が「太宰さんと結婚して、名字は如月がいい!」ある日そう言って、けらけら笑った。
「いや何言ってんの」と私は彼女のその奔放なくらいの『願望』が、呆れるやら面白いやらだった。
「太宰さんと結婚するなら、名字は『太宰』じゃないの」と思わず苦笑しながら、私はもっともらしくも言うが、彼女はそれにははっきり首を横に振るのだ。
「如月って名字がかっこいいから、名字は如月がいいの」
それじゃああんた、今後結婚するためにはまず、如月さんを探さなきゃいけないじゃない、とまた笑って……そのとき、そうか、と私はふと思った。
より「イイ」名字になりたい気持ちが、結婚して姓が変わることに前向きな希望を持つ、という気持ちにつながることがあるわけだ、と。
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そのとき私は、少し虚を突かれた心地だった。
その発想は、なかったな、と。
名字を変える、ということは、名字を嫌だなと思いながら生活するより、はるかに面倒そうだと、私は思っていたのだ。
免許証も銀行の口座も、何もかも変更の手続きをしなければいけないし、それに今度は、「名字が変わりました」のゴアイサツが必要になってくるわけだ。もうすでに、自分の元々の名字を認識してもらう面倒を踏んでいるっていうのに……。
「如月」なんて確かにかっこいいし、「芥川」とかも私はかっこいいと思うけど……もしこれから、結婚することがあっても、名字は変えずに済ませたいなあ。とりあえず、生活上のことだけでも。
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そういうことを考えていた私も、今、とうとう30歳を目前にしている。
自分の名字が変わるかもしれない、ということを考える機会にも「恵まれた」。
恵まれた、と今自分で感じていることに、自分で驚いている。
そうして、変わるかもしれない、ということにいざ直面したときにも、面倒よりも何よりも一番に思ったのは、「ああ、そうなんだ、変わるのか」と、それだけだったのだ。
むしろ、変わった方が嬉しいようにも思う。本当に大好きな人と家族になれたのだということが、ある意味、日々の生活の一つ一つで感じられる気がして。
私にとって自分の名字というのは、どれだけ嫌だの面倒だの言っても、「好きな人」の前では、些末なくらいのものだったようだ。
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これだけ、選択的夫婦別姓だとか、女性の社会進出のために、新しい家族観、だとかが世間的に叫ばれている中で、私、結構古臭いのかもなあということを、ちらっと、悩む、とまではいかずとも、少し立ち止まるようにして思わないわけでもない。
けれど、多分今、私は自分の名字が変わるときが来たら、「めんどくせえ」と顔を顰めながらも、嬉々として警察署に行き、銀行に行き、「名字が変わりました」と、笑って言うのだと思う。