どうして女ばかり。結婚した友人を諭したあの日の私は大人だった?

独身生活の長いわたしは、もう考えることもあまりなくなった、自分の名字について。
そのうち結婚したら変わるだろうと、漠然とした考えはずっと持っていたのだが。
今後、結婚で変わる可能性も、年齢とともにどんどん可能性が低くなり、普段は考える必要性も感じなくなっている。
職場の女性は結婚と同時に姓を変える人、オフィシャルな場面だけ旧姓をとおす人の2パターンで、耳にしていないだけなのか夫婦別姓はまだ聞いたことがない。
世代的には婿養子以外は、結婚で女性側の名字が変わるのが当然の時代を過ごしている。
実家には長男がいたし、生前の両親とそのような話題になることは一度もなかった。
もし結婚して姓が変わることをゴネていたら、ただ親に鬱陶しがられていただけではないだろうか。
本名は50音順ではいつも後から3番目くらい。
学生時代にはいつも感じていた50音のメリットもデメリットも、社会人になってからは関係なくなり、意識することもなくなった。
学生時代は片思いの男の子がいると、その子の名字を自分の氏名に置き換えて上機嫌になるのがお決まりだったし、由緒のありそうな、3文字の雅やかな名字にも憧れた。
あるとき、社会人になり最初に結婚した学生時代の友人が、その数ヶ月後、次に結婚した友人の二次会へ向かうタクシーの中で、急に声を張り上げ「なんで女のほうが結婚して、名字も、住む場所も、仕事も、変えないとダメなのよ!」と言った。
乗り合わせた独身者への主張か、タクシー運転手が男性だったので聞いてほしかったのだろうか。それに対して独身のわたしは、「結婚したら女は、名字も、住むところも、仕事も変わるものなんだよ」と、諭すように返したのを今でも覚えている。自分は大人だ、なんて思っていたりした。
好きな相手の名字に変わるのだから、ただうれしいだけじゃないの?
そういうことを言って、結婚したことをさりげなく主張したい?
友人のように文句を言う女性について、この人は本当に好きな相手と結婚したのか?とも感じたりした。
わたしの時代に存在した「結婚したら幸せ」という当然のような、根拠のないキラキラ。
しかし生活が始まり時間がたつと、いろいろと見えてくるものがあるだろう。
その実感が、友人の「なんで女のほうが結婚して、名字も、住むところも、仕事も、変えないとダメなのか」という発言として表れたのだろうか。
たぶんその時のわたしの返事は、同年代には当てはまったかもしれないが、あの時すでに時代の変化が始まっていたのかもしれない。
また自分の名字があまり好きではない人、よくある名字の人、例えば受付の窓口で呼ばれて数人が反応するような名字の持ち主には、相手の名字になることは、いいタイミングかもしれない。
個人的には自分の名字は大切に思うが、こだわりを持つほどではない。
下の名前との兼ね合いで、区切り方によっては苦笑されることだけは避けたいと思ったくらい。
名字が変わることにより、結婚したことをまわりに認識してもらいたい人もいるだろうし、名字が変わるだけで、人生の区切りや新しいスタートにもできる。
長い独身期間を過ごし相手もいない状態で今後、結婚して名字を変えたいとは、もう思わない。しかしわたしも昭和生まれだ。
それでも、ああこの人、この状況なら、と思える出会いがあれば名字を変えるかもしれない。
変わる、変わらないに対して深く考えない人だけが、普通でいられるのかもしれない。
一生の中で、それこそ名字が何度も変わることは、今でもいいこととはされていないが、一度くらいなら珍しいと感じなくなった。
ただ黙って配偶者の収入に頼ることしかできなかった時代から、女性もしっかり仕事を持ち、主張ができる時代に変化している。
これまではただ世の中の習慣に従っていただけで、これが正解、というものがまだ出ていない気がする。
離婚が増えて複雑になる印象もありつつ、これからの時代は、さらに自由な選択や変化が出てくるかもしれない。
名字を変えることも、変えないことも、変えた経験のある人だけが実感することなのだろう。
これからの時代を生きていく若い人の未来は長い。できれば古い考えに縛られないよう、自分たちの考えで選択できるといい。新しい時代は、新しい人にしかわからない。
そして多くのさまざまな選択技に恵まれるといいと願う。時代の変化や未来は誰にも予想できないのだから。
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