「名字を変えたいくらい好き」が愛なら、私に愛はわからない

「あなたはこのお墓には入らないよ。別のお墓に入るの」
小さい頃、お墓参りをしていた時に、そんなことを両親に言われました。
大人になってからも、父や母と”家族”であることには変わりはないはずだと思っていたので、私は、一気にわけが分からなくなりました。
「え、お兄ちゃんは?」
「お兄ちゃんは、一緒だよ。でも、あなたは、誰か好きな人と結婚して、その人の家のお墓に入るの」
そう言われた時の感情を、衝撃を、どう表したらいいのか分かりません。
私は、お兄ちゃん子といっても差し支えないほど、兄にべったりな子どもでした。最高の遊び仲間だったのです。でも、彼と私には大きな差があるのだと、その瞬間に悟りました。
兄は、生まれてから死ぬまで、ずっとこの家の子。でも、私は?
「あなたは入れないの」と言われたお墓の前で、家族と一緒にいるにもかかわらず、一人ぼっちになったような気がしました。
成長するにつれ、両親の言葉の意味が分かるようになってきました。高校生くらいにもなれば、友人たちとこんな話をすることもありました。
「結婚して名字が変わったら、どうしよう。私のあだ名、名字からとっているのに」
そう言う友人を、皆で慰めたこともありました。私たちは、そのまま呼び続けるよ、と。
けれど、「何でそのあだ名になったのか分かんなくなっちゃうね」と寂しそうに笑う友人に、何と声をかければいいか分かりませんでした。
そうして私たちが出した結論は、「結婚、したくないなぁ」でした。
自分が変わらなくちゃいけないなんて。名字を変えて、生まれ育った家族から離れて。お墓すら、"家族"とは別々になって。その違和感に苦しんでいるのは、私だけではありませんでした。
でも、大人になればなるほど、名字が変わることを前提に話が進むようになっていきました。まだ相手すらいないのに、「女性は結婚すると名字が変わりますから」と言うお店の方の言葉に従って、銀行印を下の名前で作りました。
名字も、下の名前も、どちらも私の名前です。でも、「女性は名字が変わるから」という前提のもとで銀行印に刻まれた自分の名前を見ると、複雑な気持ちになりました。
ある日、私は母に尋ねました。
「母は、自分の名字が変わること、嫌じゃなかったの?」
「全然。だって、もとの名字の方が好きじゃなかったし」
そうか、そういう人もいるのか、とも思いましたが、そうではない場合は、この違和感とどう折り合いをつけたらいいのでしょう。「結婚したら女性は名字が変わる」なんて、自然現象か何かのように言われたって、少しも納得できません。
男の子に生まれれば、ずっと名前は変わらないで済んだのに。ずっと私のままでいられるのに。そうつぶやく私を、両親は憐れなものでも見るかのような目で見てくることがあります。
「それくらい好きだと思える人に出会えることが幸せなんだよ」
かれこれ1年間フリーを貫いている私には、全く共感できない言葉です。そもそも、どうして変わる方は「女性」って初めから決まっているのでしょう?
結婚したいくらい好きな人ができた時に、自分の名前を変えなくちゃいけないなんて。ずっとその名前で生きてきたのにおかしくない? と違和感を抱いてしまうのは、私が「変わらなくちゃいけない側」に生まれてしまったからでしょうか。それとも、純粋に愛を知らないからでしょうか。
でも、誰かを好きなことと、自分の名前を好きなことは別物だと私は思うのです。私は自分の名前が好きなのです。自分を好きになってくれる人がいるとしたら、きっと、その人は私の名前も好きなんじゃないでしょうか。
「これからは私と同じ名字で生きてね」なんて、私なら相手に言えません。そう伝えることが、それに「はい」と答えることが「愛」だとするのなら、私は一生、愛が分からない気がします。
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