誇張でもなんでもなく、名字を初見で読んでもらえたことがない。
読み方自体はさして珍しくもないのだが、不思議なぐらい皆正解に辿り着かないのである。似たような響きの、別の名字で呼ばれて返事をするのはここ数十年で慣れてしまった。その後、実はちょっと違うんです……と読み方を訂正するのも。

とはいえ決して嫌ではないし、煩わしいとも思っていない。むしろこの「読まれない」状態がいつまで続くのか、少し楽しみですらある。最高記録は一体何歳になるのだろうか。
ぱっと読んでもらえないのは、名字に含まれる一つの漢字が原因だ。これも皆示し合わせたように「初めて見た」「何これ?」と言うので、確かにあんまり見ないですよね〜と答えるのがお決まりになっている。
その原因たる漢字だが、とある漢字の旧字体である。そのとある漢字自体は普通に知られているだろうが、「鈴」や「田」ほど名字としてよく目にするようなものではないので、それが余計に読まれにくさに拍車を掛けているのかもしれない。

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昔々のその昔、我が家のこの字もごくありふれた、普通の漢字だった。けれどある時、先祖が何かしらの「凄いこと」をやったので、その褒美として殿様から今の字を使うことを許され、今に至る……。
――と、名字の由来について以前祖父に聞いたのだが、正直なところ真偽は不明だ。この字を使っている人間は私の一族にしかいないそうなので、たとえ会ったこともない赤の他人であっても、この名字であれば親戚ということらしい。

昔話にしても親戚にしても、ホントにぃ?と聞いた当初も今も半信半疑だが、本当だったら面白いので、そうだったらいいなと思っている。

顔も名前も知らない過去の誰かが、殿様から特別な字を許されるような何かをしたのだ、というのはロマンだ。たとえ、その内容が全く伝わっていなくても。

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そんな「多少不自由することはあるが、それ以上に特別感のある名字」を、私は結構気に入っている。幼少期はテストの度にもっと簡単な名字だったら……と苦労したものだが、それも良い思い出だ。
しかしそんなお気に入りの名字も、結婚すれば変える必要性が出てしまう。婿入りしてもらえば解決なのだが、それも中々難しいだろう。

昔よりも「女性が名字を変えるのが当然」という風潮は薄れてきているだろうが、それでもこの風習は根強く存在しているように思う。

勿論それが悪いことだとは言わないが、私のように自分の名字に思い入れの強い者や、理由があって変えたくない者、単純に諸々の手続きの煩雑さを厭う者にとっては、どうにか回避したい面倒事でしかない。

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名字を変えるのも、変えないのも、当人同士の納得の上で決められれば一番良いのにと思う。選べる自由があるのが一番健全な状態ではないだろうか。勿論すぐに何もかも上手くいく筈がないし、女性が名字を変えないことで生まれる様々な混乱もあるだろう。

だが、選択出来るようになることで社会が混乱するのであれば、存分に混乱してほしい。何かが変わるということは、良きにせよ悪しきにせよ困惑と波紋を生むもので、波風一つ立たないなんてことはありえない。

万人が望む変化なんて存在しないし、名字を変える変えないというほんの些細なことだって、その一つだ。

けれど精々百年後には、その混乱も落ち着いて、変化後の世界が「普通」になっているだろう。百年前から変化した後である「今」が、なんだかんだこれで普通であるように。今すぐでなくとも、緩やかに、少しずつ良い方向に変わっていってくれればいい。
そして百年後。いつかの誰かが成した結果である(かもしれない)この名字が、この眉唾物のエピソードと共に、子孫へ受け継がれていることを願っている。