私はありきたりでよく見かける名字の持ち主だ。
そして下の名前もよく見る名前なもんだから同姓同名が多く存在している。高校2年生のとき、卒業生代表として出席した卒業式で自分の名前が呼ばれたときは思わず返事をしてしまいそうになった。まさか一つ上の学年に同じ名前の人がいるとは知らず、かなり驚いたが自分の名字や名前のありきたりさに納得した思い出でもある。

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子供の頃はこの名字が嫌いだった。

画数が多いし、授業の習字で作品の横に名前を書くときにどうもバランスがとりづらい。この漢字をうまく書ける人なんて小学生にいるんだろうかと毎回書きながら思っていた。

また学校では何かをするときに順番を五十音順ですることが多く、クラスでは私が毎回最後だった。健康診断、暗唱テスト、かけっこ。名前順のせいで順番が回ってくるのはいつも最後の最後で、終わってみんなが教室に戻っていく姿を見ながらなんとなく仲間外れのような気持ちを感じていた。

だから私は結婚するなら五十音順の早い名字の人と結婚しようと幼いながらに考えていた。当時好きになった人の名字が行だとやけにうれしかったのもそういう理由だろう。

またその頃は愛称として名字を使われることが多かったのだが、それがすこぶる嫌だった。「元気もりもり!」みたいなイメージが強くて自分とは合っていない、私はそんな子じゃないと思っていたからだろう。その愛称で呼ばれるたびにからかわれているようで恥ずかしかった。

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大学生になると、自分の名字について考えることは減ったように思う。それは大人になるにつれて名前順という概念はほとんどなくなるからだろう。名字で順番が決まることがなくなると名字への劣等感がぐんと減った。そして名字を愛称にされることも減った。

そもそも、学科やサークルの友達は皆、いつのまにか、誰かにつけられた名前とは関係のないあだ名でお互いを呼ぶようになっていたこともあり、私の名字を知っている人は多くないのかもしれない。

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それから自他ともに名字の存在感が増したのは社会人になってからだ。取引先の会社に訪問すると初対面の人にはあいさつと共に名刺を渡し、お互いにさらりと目を通す。社名、肩書、名前。小さい紙にたくさんの情報が記されているが誰もが注目するのは相手の名字だろう。

もちろん、私も必ずと言っていいほど、相手の名字を最初に確認する。人の名前を覚えるのが苦手なのもあり、名刺を渡されたときに名字を頭の中で唱える。そうすると相手の名字が頭の中でいっぱいになり、ただ名刺を眺めているよりも覚えやすいような気がしている。もちろん、あとで名刺に相手の印象をメモするのも忘れない。

なかなか見かけない名字の方にお会いするとなんだかレアな人にあったような気持になって嬉しくなるのは私だけだろうか。相手も同様に名刺に書かれた私の名前を読んでくれているのだろう、最近は「きれいな名前ですね」と言われることが多い。

私の名字はこれと言って珍しくはないが、名前と合わせると名前全体の雰囲気に一貫性があって、私の仕事や自身の雰囲気に合っていると必ずといっていいほど言われるのだ。名刺という最初の情報の受け渡しは名前をじっくり見る機会に繋がっているのだと実感する。

名前を褒められるなんて、ただ話題が見つからないからひとまず話をつなげるためにお世辞で言ってくれるのかもしれない。だけど、今まで名前をほめられたことはなかった分、言われるたびに舞い上がってしまう。

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人生で自分の名字を好きだと思っていなかったがこれをきっかけに私の名字って素敵なのかもしれないと自分でも思うようになるから人の言葉って不思議なものだ。

もし、私の名字が今の名字でなかったら、多分「名前が素敵ですね」なんて言われることは一生なかったのかもしれない。小学生の時にもっと五十音順が早ければ、と少し恨んだ名字。今ではきれいな名前を構成する一部となっていてちょっと自慢の名字だ。