中学生のころから名字とは「住所」のようなものだ、と思っていた。

私が女ということもあり、名字はいずれ結婚すれば変わるもの、だからそのときどきで変化する私の呼び名のひとつでしかない。そもそも母だって結婚してから名字は変わっているはずだけれど、それでも変わらず同じ人間なのだから。

それに比べて名前はこれから先もずっと私を示すもので名字よりもよっぽど価値がある。そう感じていた。

高校進学直前に家庭内がゴタゴタしてしまい、私も母の旧姓に名字が変わるかという話になった。

どっちの名字になろうが、当時の私は別にかなりどちらでも良かった。なんならそのゴタゴタに伴って引越しもするのだから、心機一転住所も名字も変わるくらいどうってことない気さえした。だって私は私だもの、住所が変わってもね。それはまだ幼い思春期の私にとっては最も大人びて賢い考えだと思った。

結局、私はそのまま父の名字から変わることは無かった。母は仕事上での呼び名は父の家系の名字で通していたが、戸籍上は旧姓に戻った。 「名字が変わるかはどっちでもよかったけれど、本当はお母さんと同じ名字がよかったな」中学生の強がりで、母に言うことはなかった。

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その後、二十一歳で私は結婚し、新たな名字を手に入れた。別に一人娘だからといって父から継いだ名字を残したいという感覚もなかったので、すんなりと夫の名字を貰うことにした。

新しい名字になるということはかなりの手間であり、色々な場所に書類を持って馳せ参じた。楽しい新婚の手前にある必要な事務作業。これが会社勤めだとしたら尚更大変だろう。

結婚してから名字について母と話す機会があった。あの頃名字が母と違ったことをどう思っていたのか母に問われた。

「私は確かにどっちでも良かったんだ、けれど本当はお母さんと同じ名字が良かったな」

数年越しの私の告白に、母は驚いた。私の名字を変えなかったのは、高校に入っても中学のころから知っている友達がいるだろうという、考えに考えた母なりの優しさであった。

「お母さんも、あなたと違う名字になるのが本当は悲しかったのよ。でも、親子であることには変わりないからね。ずっとずっと、大切な可愛い娘」

その言葉が今でも忘れられない。そう、私はずっと母の娘である。名字が違ったとしても。

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昨今夫婦別姓について賛否あるが、私個人としては夫婦別姓を認めることには賛成である。今現在、一般的に家族であれば同じ名字だというシステムが成り立っている中で、夫婦別姓という選択をすることは苦労も多いと思う。ただいずれ、新しいシステムは馴染むのではないか。新紙幣もそうだ。最初は目新しいけれど今やなんとも思わなくなってきた。

そしてなにより、夫婦別姓が認められることによって、その人自身が大切と思うものが守られるということが重要なのではないかと考える。

名字とはきっと、それぞれ個々に大切な想い入れがあるものなのである。私が私の名前を大切にしているように、例えば名字を誇りに思い、受け継ごうとしている人もいるはずだ。また、仕事や周りとの関わりの上で名字を変えたくないという考えが産まれるのも、女性も働く現代としてごくごく自然な発想なのではないか。

夫婦別姓という新たな選択が生まれることで、誰かにとっての大切な考えが尊重される。ならばそれを受け入れる社会であれば良いのにな、と私は思う。

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なにより、母と私は名字が同じ頃も変わってからも、間違いなく家族である。たとえ名字が違っても、お互いが家族と思い相手を大切に思っていれば、どんな形であろうと関係性に変わりはない。
名字が同じであることよりも大切なものが、私たちには存在している。