大根組。

これは華の女子高生だった私が、友人と作ったグループだ。 入団資格はただひとつ。

「大根のように太い足の持ち主かどうか」

女子校であれど、多感な思春期。

登下校中にすれちがう男子学生にソワソワするほどには青かった。 当時はガラケーで、いまほど多様な情報源もなく、女子高生の私にとって覇権を握っていたのは、ファッション雑誌「Seventeen」だ。 原宿でクレープを食べ、プリクラを撮る。 109のショップバックはそのままお弁当入れにして普段使いする。 雑誌に載ってるそんな遊びは、たいてい真似して楽しんだ。 だけど、ひとつだけ、ずっと憧れながらも、 できずにいたことがあった。

スカートを短くする、ということだ。

女子高生といえばスカートを短くする。 今考えると、それこそレッテル張りなのだけど、当時の私の中ではそういうものだった。 それが私にとってのかわいいだったし、 短いスカートの子はなんだか強く見えた。 わたしは例にもれず、憧れた。 でも。 短いスカートをはきたいと思うといつも、 つん、と鼻が痛くなるような感覚になった。

私の足は、ごりごりに、たくましかったのだ。

下半身の太さを気にするようになったのは、 小学4年生あたり。 みんなの前に立ち、発表して席に戻ると、 「おまえ足太くない?」と言われた。 「隣の〇〇ちゃんと、腰の位置ぜんぜんちがうんだけどw」 太いだけじゃなく、長さも足りないらしい。自転車を立ちこぎしていたら、 後ろから「おい豚足!」と笑いながら声が飛んだ。

うるせぇ、と言いかえす強さも、 別にいいや、と流せる成熟さもなく、私はしっかりと傷ついた。

私は「安産型」らしい

母が、誰かと電話してる。多分、ママ友だ。 笑いながら、こう言っていたことを私は今でも鮮明に覚えてる。

「あ~あの子は、ほんとにぽっちゃりしてるから。安産型よ。そうじゃなきゃ、かわいそうじゃない」

当時は”安産型”の意味も、はっきりとは分からなかったけど、どこかにひっかかっていて、そしてそれが「骨盤が大きいから赤ちゃんを産みやすい」という意味だってことを知るのに、そう時間はかからなかった。わたしの下半身は、ぽっちゃりとしていて笑われる対象で、だけど、将来赤ちゃんを産みやすいから、かわいそうではないらしい。

そのころから、私は、自分の体型を、どんどん嫌いになっていった。 自分の容姿が、身体の線が、とてもみじめに感じた。 部活で鍛えられた私の足は、小学生の頃よりもずっと太くたくましく、ごつさが増した。 競輪選手のそれ、と言えば想像がつくだろうか。

「足が太い 公害」で検索

放課後、周りの友達が慣れた手つきでスカートを折る。すらっと伸びる足が目に入る。 自分のスカートを折る手はひるみ、「こんな足隠したほうがマシだ。」と心の声。 だけど、スカートが長すぎても笑われちゃう。ももまで短くしかけた丈を、膝の真ん中くらいに、そっと戻した。 

家に帰ると「足が太い 公害」とググり、匿名掲示板に並ぶ「足太い女まじ無理w出すなよw公害w」なんていう卑劣なコメントを読んで自ら追い打ちをかけ、「まぁやっぱりそうだよな」とまがった自己受容をしようとしたこともあった。

 丈の短いショーパンや、身体の線が出るスキニー。 そんな服を見るたびに、自分には履けない、と感じる。 憧れと自分への自信のなさにはさまれて、目の奥がじんとした。  足くらいでそんな大げさな、と思う人もいるかもしれない。 だけど、閉鎖的な学校空間。情報源の雑誌には毎月のようにダイエット特集が組まれ、テレビでは「デブ」「ブス」と当たり前に笑われる女性芸人。

他人からの視線が特に気になる中高時代、「足が太い」ということは、私には一生つきまとう絶望に映った。

そして「大根組」爆誕

そんなときふと似たような足の友達と、「おい、うちらの足ってなんか大根に似てない?」という話から生まれたのが「大根組」だ。

大根組は、自分たちのたくましい足に、誇りとプライドがある、らしい。 絵が上手なその子は、ラーメン屋の看板みたいな字体で、小さなメモに勇ましいロゴを描いてくれた。 他の細い子が入ろうとしても、入団拒否をしてみたり、特に何をするわけではないけれど、「俺ら大根組だぜ!」とスカートを上げて肩を組み、足を出しながら廊下を歩いたりした。

投稿者提供(今回のためにもう一度描いてもらいました!)

大根組、その響きの隠しきれないマヌケさと、たくましさにけらけらと笑ったとき、太さに憎んだ自分の足を、なんだか悪くないかも、とはじめて思えた。 筆箱にいれて擦り切れるまで持ち歩いていた大根組のロゴは、いつも笑われる私の身体へのお守りになった。

私が女子高生だった6年前と変わらず、今でも雑誌は華奢なモデルさんが多く並び、テレビも平気で容姿をネタにする。
日本の10代の女の子は、世界で一番自分の容姿に自信がない、というニュースもあった。昔のわたしみたいに、「公害」なんてググってる高校生もいるのかもしれない。

気づいたら24歳になった。 今でも、ビキニを着てみたくても、なんだか着れないむずむずした気持ちは制服のスカートのそれと同じ。でも前よりもずっと、自分の身体を嫌いじゃなくなった。

「華奢であるべき」という刷り込み

フェミニズムに出会えたことが、大きな支えになっている。自分の身体を醜いものだと思ってしまうのは、私の足の太さが原因ではなく、「女性は華奢であるべき」という社会からの見えない抑圧、幼い頃からの刷り込みによって生まれるものであることに、わたしはこの1年で、ようやく、気づくことができた。

画一的な美の基準を押し付ける表現や、従来の「女らしさ」を強調する広告は炎上するようになってきた。ミュージカル「グレイテスト・ショーマン」の「This is me」や「アナと雪の女王」の「Let it go」をはじめとする「こうあるべき」からの解放を歌う曲はヒットするし、映画「アラジン」でジャスミンが歌う「speechless」という曲は、女の子のぶつかる不条理に対して「もう黙らない」と力強く歌い上げたものだ。

幼い頃から刷り込まれてきた美醜への意識から完全に解放されることは、まだまだ難しい。だけど確実に、社会はいい方向に進んできている。
大根組のロゴの描かれたメモはもうどこかにいってしまった。 だけど自分の身体を悲観せずに受け入れようというあの18歳の心意気は、時を経て今もそっと心に宿り続け、わたしのこころと身体を守ってくれる。
スカートを上げて肩を組んで笑ったのは、夏だった。 長い梅雨から一転、猛暑続きの今年の夏も、呪縛をひとつひとつ、蹴っ飛ばして歩いていく。

ペンネーム:ムラオカナツホ

早稲田大学文学部卒業後、あーでもないこーでもないと約一年迷走。悩みをぶちまけた文章を公開したことから「書く」ことの効用を知り、今は編集部でアシスタントをしています。
Twitter : @natsuho620