「コンプレックスなんてない」
「コンプレックスは何か」と誰かから問われた時、ついとっさにこう答えてしまう。身体的なコンプレックスをあげれば、きっとその瞬間からその人は私の身体のその部分に目が向いてしまうだろう。精神的なコンプレックスをあげれば、きっとその瞬間から私はそこを出すまいとして意識し始めてしまうだろう。いずれにせよ、何かを答えれば少なからずその相手との間にギクシャクしたようなものが芽生えてしまう気がして、そう答えてしまう。
私の眉上の大きなホクロが消えた
たとえば、私の左眉の上には大きな茶色いホクロのようなものがある。生まれてから、自分ではそれが特に嫌だと感じたことはなかった。でも、ポートレート写真を撮影した時、カメラマンが編集した写真の自分からは、そのホクロが綺麗さっぱり消え去っていた。美容皮膚科を受診した時には、「そのホクロ気になりませんか?気にしていらっしゃるならレーザー治療というものがあって…」と、ホクロ除去のメニュー説明が始まった。大事な個性の一つである部分を消すなんて、私にはそれまで考えもしないことだった。
とるに足らないコンプレックスなんて、そんな風にして誰かからの言葉や、小さな何かによって印づけられたに過ぎないもののようにも思える。
映画を観ることは、他人の人生を生きてみること
そう思ってた。だけど、よく考えてみると、私にもコンプレックスがあった。それは私に「高校時代の思い出がない」ということだ。
16歳の時、なんとなくクラスの雰囲気に馴染めなくて、高校を3ヶ月で辞めた。毎日家に引きこもっていると、たまたま「映画の数ほど人の人生がある」という言葉を耳にした。もはや自分の人生を投げ出そうとしていた私は、「試しに誰かの人生を生きてみよう」、そう思い、ひたすら映画を観始めた。映画を観ることは、すなわち他の人の人生を覗き見することに等しい。ひとときであっても、自分の人生を生きる重圧から解き放たれたことは、私にとって救いだった。それから私の人生は、映画と共に歩みだすことになった。今では映画について書くことが仕事の一つになっている。
学生時代を描いた「青春映画」を観る時には、いつも自分が永遠に失ってしまったものを観ているような気がしてしまい、切なくなる。周りの人と学生時代の話になると、どこか気まずさを感じてしまい、居心地が悪くなる。20代、自分には圧倒的にハンデがあると思い、引け目を感じながら必死に走っていた。
それは多くの人が持っているはずの輝かしい学生時代が、自分にはないということに対するコンプレックスだった。多感な学生時代に恋をしたり友達と過ごしたりすることの尊さやかけがえのなさを思うと、もう手に入らないものをどうやって埋めればいいのか、わからなくなってしまう。
でもきっと映画の物書きにとって、映画とだけ過ごした青春時代の数年間があること、映画だけが対話相手だった経験は、稀有な財産でもあるだろう。今では、コンプレックスは誇りへと反転させることもできるのだと信じている。自分がそう強く望む限りは。
ペンネーム:美月
言葉なきイメージの海を潜りながら言葉にすることを呼吸として泳ぎ続けています。
Twitter:@tal0408mi