「自炊とかするの」と彼に聞かれて「たまにね」と言ったはいいものの、はて自炊とはと考える。私の“作る”ものと言えば、トースト、スクランブルエッグという名の溶き卵をぐちゃぐちゃにして火を通したもの、大根を醤油などで適当に煮たもの、具なしカレー、卵かけパスタなどなどのラインナップで人様に出せそうなものはなく、どこからが料理ですか果たして料理とは、という途方もない気持ちになった。ちなみに、関係ないけど部屋も汚い。もしかして「今度料理をつくってほしいな」などと言われてしまったらどうしよう。つくりたくないわけではもちろんないが、そんな技量もない。不安になった私は「火を通すくらいはね」と小さい声で付け加える。まるで嘘をついているようにドキドキしているのがわかった。心臓が一生の間に動ける限度は決まっているらしい。彼の何げないひとことで、私の寿命は多分2分くらい縮んだ。

誰かに出すことを前提にした瞬間に“敗北の味”になる

その日、私は書店に寄り、片っ端から料理本をカゴに入れた。技量がないなら身に着ければいいのだというマッチョ思考。レジ袋の持ち手が伸び伸びになって破れそうなほど食材を買い込み、スーパーから家まで400mの道のりを休み休み帰路につく。さて料理しようというときになって料理本を見ると、大さじ小さじ30分煮ましょう2時間ほど寝かしますなどという表記に眩暈がしてしまって、結局買ってきたものを全部鍋にぶち込んで蒸し、塩をかけて食べた。いつもはうまいうまいと言ってひとり喜んで食べている“メニュー”も、今日は敗北の味がする。

それでも、買った料理本を手繰った中に、一番つくりやすそうな「たまごサンド」を見つけて諦め悪くも来たるべき日のために練習をした。誰にも頼まれていない。しかし、いつかは越えなければいけない壁のような気がしてならなかった。たまごサンドなんてマヨネーズと塩コショウの味という失敗しようがない味付けなのだけど、それでも供する自信がなく、アボカドとトマトとチーズとレタスとベーコンを挟んだ食材のバラエティーの豊富さで自信を補填する姑息な作戦に出る。もはや「たまごサンド」ではなく「たまごアボカドBLTチーズバーガー」だ。食べにくいことこのうえない。そして彼に会うことになるたびに、私はたまごアボカドBLTチーズバーガーをつくるのだが「朝ごはんあるけど食べる?」が怖くて言えないのだった。

「自炊するの?」その先の筋書きを書いたのは誰?

そして日の目を浴びることのなかった2人分のたまごアボカドBLTチーズバーガーは、毎度お昼ごろにひっそりと私の胃の中に収納されていく。私はどうしてこんなに料理に執着しているのだろう。別に「ご飯をつくってほしい」と言われたわけでもない。ただ「自炊するの?」と聞かれただけ。それなのに、私はどうしてこんなにも躍起になって料理を出そうとしているのだろうか。まるでままごと、あるいは誰かが書いた筋書き通りに動いているかのよう。その筋書き、誰が書いたの? 私ではない。彼ではない。じゃあ、誰が書いたの?

たまごアボカドBLTチーズバーガーを毎日作り続けて1週間。いい加減食べ飽きて、料理自体にも疲れてしまった私は、スーパーに行って目につく総菜をカゴに入れていた。エビチリ、餃子、シュウマイ……と、私の好きな総菜をカゴに入れて、家に帰ってから片っ端か電子レンジで温める。気が向いたので、かわいいお皿を出してきて盛り付けてみる。ちゃぶ台に並べたそれらは何だかそれっぽくて、ワンコインで買い揃えたとは思えぬほどの豪華なディナーになった。並べ方を変えたり、写真を撮ったりする。

「楽しいな……」

思わず声に出したとき、ウッと喉の奥が詰まる気がして息が止まって、目から涙が止まらなくなってしまった。それは堰き止めていた何かが決壊するようで、そこには我に返ったようなカタルシスがあった。

「私、料理なんて全然したくなかったんだ……」

嘘みたいな話だけれど、私はそのときが来るまで「自分が女の子だからいつかは料理ができるようにならなくちゃ」と本気で思っていた。本気で、というのはその考えにどっぷり傾倒していたわけではない。頭ではそうでないとわかっていたはずなのに、だけど本当にそう思っていたのだった。自分が料理が好きじゃないことも全く気づけなかった。今は面倒だと思っていても、いつかは好きになれると思っていた。本当に嘘みたいな話だと自分でも思う。でも、その瞬間ようやく気付けた。まるで憑き物が落ちたみたいに。

料理という名の神を掲げた宗教戦争、戦いの火ぶた切って落とされる

自分にとって新しい気づきだったということもあるけれど、そんな当たり前のことに今まで気づけなかったことに驚いて、その気持ちをTwitterに投下した。すると、ありえない数の「いいね」とリプライが付き、細胞分裂のように数字が肥大化していく。私はフォローしている人以外からのリアクションの通知を切っているので即座に通知が届くことはないが、リプの数字が膨らんでいくのはわかる。恐る恐る開くと、そこは地獄の深淵だった。

純粋な気持ちで「よかったですね」というコメントもあったけれど、「よかったですね」と言いながら自分が姑にされてきた恨みつらみをぶつけてくる人や、「料理にこだわっているなんて古い考えだと私は思っています。早めに気づけてよかったですね」という謎のマウンティングがツリーをなしていた。投下した本人である私はすでに不在。各々でリプを飛ばし合っては燃え上がる火柱に向かって激論を交わしている。皆、冷静さを欠いていて、それこそ怨霊が憑いたかのようだった。この熱狂ぶりはまるで一部の過激な宗教。己の信じる「料理」という名の神を掲げて、どの神が正しいかを証明する宗教戦争のようだ。

もはや私自身が料理が好きか嫌いかなんてどうでもよくなり、見知らぬ人間の140字にここまで焚きつけられてしまう人がこんなにもいるという“超常現象”に放心した。一刻も早く成仏してくれという気持ちで、どんどん火の手が大きくなる炎上ギリギリの“お焚き上げ”の様子を液晶越しに祈るように眺める。その延長線上には、ついさっきまでの自分もいた。

戦争は3日ほど続いた。誰が勝ったのか、成仏できたのかはわからない。

ふとよぎる「これを人に出せるのか」という怨霊

「女の子だから料理ができなくちゃいけない」というのは“古い考え”だということは、私だって百も承知だ。「冷凍食品ばかりじゃ子どもがかわいそう」という料理の手作り信仰も、文字通りの“信仰”だということも頭ではわかっている。多忙なスケジュールの中、冷凍食品やレトルトをうまく活用していくほうが合理的だし、やむを得ない部分だってあるだろう。それなのに、どこかで「確かに……」と思ってしまう自分がいる。

個人の「好み」や「考え方の違い」で許されるようなことが、こと料理になるとイデオロギー的に対立や執着を生んでしまうのはなぜなのだろうと考える。料理をしたい人はすればいいし、したくない人はしなきゃいいのに、と言うのはもっともだけれど、現状がつらい人に「早く元気になったほうが楽しいよ」というくらいには空を切るような気がするのは私だけだろうか。

かくいう私も、毎日スーパーに行って好きな総菜を買って盛り付けては喜ぶか、大根を浸した熱湯に醤油と味噌をぶちまけて煮たものをうまいうまいと言いながら食べて喜ぶかしているけれど、ふとした瞬間に「これを人に出せるだろうか」という考えが頭をよぎって背筋が凍りそうになる。それでも目の前の料理を口に運んでは「うまい!」と大げさに叫んで悪霊退散。“怨霊”を追い払うのだ。

illustration :Ikeda Akuri