ときどき人から「羨ましい」と言われる。たとえば、髪を赤くしていることやヌードの被写体をたまにすること、自分の話を赤裸々に書き、文章のうえで感情を露わにすることなどについて。

「羨ましい」というだけならいいけれども、“攻撃”を受けることも多々ある。ヌードを撮ったときは「こんにちは!ありのままの身体を撮るって本当に素敵だなって思いました!アイラインがよれているところとか、胸がたわんでいるところとかも含めて!」という“熱いファンメッセージ”がDMで届いたし、渋谷のスクランブル交差点を歩いていると知らない人に呼び止められて「いつも文章を読んでます!私でも書ける文章だと思って、あなた目指して頑張ってます!」というフェイクな愛でコーティングされた手榴弾をぶつけられたこともある。街を歩いていきなり襲撃されるのだから「テロ」と呼んでも相違ない。

羨ましいと言ってくる人も、“攻撃”してくる人も、「羨ましい」と本気で思っているならば自分だってやればいいではないかと思う。仕事上の問題はあるかもしれないけれど、フリーランスならば髪の毛の自由度はある程度あるし、先のDMの女の子に指摘されたように抜群のプロポーションを持ってしてヌードを撮ってもらっているわけでもない。赤裸々に書ける、感情を露わにするということは“able”ではなく、どうしようもない衝動に近い。私にしてみれば何が羨ましいのかが全然わからない。やろうと思えば誰だってできることではないか。

「私の欲しいもの、全部持ってて許せない」

この手の話をするとき、必ず思い出してしまうエピソードがある。

もう7年ほど前になるが、就活のグループディスカッションで一緒になった女の子とお互いに内定が決まったタイミングでご飯を食べに行ったときのことだった。彼女と会ったのはお互いに第一志望の出版社の面接。蓋を開けてみたら彼女は出版社を落ちて大手観光代理店の一般職に就くことに決まり、私は内定をもらっていたものの、いろいろと葛藤した結果、私は第一志望の出版社に行かないことにした。彼女には出版社に行かないことにした旨だけを伝えていたので、彼女は私も“お祈り組”だと思って誘ってきてくれたらしい。ランチバイキングに行って各々好きなものを盛り、席に着いてから開口一番始まった同出版社の悪口を聞くに堪えなくなってきた私の表情を汲み取ってか、「あれ?あなた、落ちたんじゃなかったの?」と聞かれた。これ以上の沈黙を続けるのも厳しく、私は内定をもらったが、辞退したことを素直に伝えた。すると、まんまるで大きな目がさらに見開かれ、彼女の口からことばが濁流のように流れ出てきた。

「どうして内定したのに行かなかったの?あんなに行きたがってたのに?私だって行きたかったのにどうしてそんなに簡単に切り捨てられるの?それともすっごく葛藤した?行くことにした会社はどうなの?ねぇ、第一志望だった会社を辞退した今はどんな気分?」

今度は私が驚く番だった。あんなにも楽しそうに出版社の悪口を言っていたのに、矛先が自分に向くとはつゆも思わず、傷つくよりも先に動揺を隠しきれなかった。お互いに少しクールダウンさせたほうが良いだろうと「ちょっとご飯取ってくるね」と席を立ち、と言ってもお腹がいっぱいだったので、カレーのルーだけをよそって彼女のもとに戻ったとき、彼女はほとんど泣きそうな顔で、震えながらこう言った。

「あなたって、カレーもルーだけ食べられちゃう人なんだ」

私がキョトンとしていると、彼女は立て続けにこう言った。

「私だって小さい頃からカレーのルーだけ食べられたらいいなって思ってたのに、ママがお行儀が悪いって怒るからずっと我慢してて、今回の就職だってママが納得してくれる会社に就職を決めたの。あなたは出版社に受かったのに簡単にその道を捨てて、カレーのルーだけを当たり前のように食べて、許せない。私が欲しいもの全部持ってて許せない」

そう言って、彼女は私の目の奥を刺すように凄んだ。

私はすっかり狼狽し、彼女に何と声をかけたらいいのかわからなくなってしまった。それでも、何か言わなければと、

「カレーのルーだけ食べてみたらいいのに。おいしいよ」

と言い、ルーを掬ったスプーンを彼女の目の前に差し出した。その瞬間、彼女はもう堪えきれないといった感じで「カレーのルーだけ食べたくてもできないんだもん!」と言いながら、大声で泣き出した。

私たちのテーブルに一挙注がれる視線。大声で泣く彼女と、スプーンを掲げたまま呆然とする滑稽な私。なみなみに掬ったルーがスプーンからポトリと落ちても、私はしばらくそのまま動くことができなかった。

「羨ましいならやればいい」の謎、7年後に解ける

カレーのルー事件のことはそれから7年経っても頭の片隅に留まっていて、「羨ましい」という単語を聞くたびにクローゼットの奥底から引き出されるごとく当時のことを思い出していた。しかし、冒頭の話同様に「羨ましいならやればいいのに、どうしてやらないんだろう」というのは、ずっと謎のままだった。

しかし、7年の月日を経て、私は少しその気持ちがわかったかもしれないと思うような出来事があった。「羨ましいならやればいい」のブーメランが返ってきたのだ。そして、それは恥ずかしいくらいに些細なことだった。

ある日、友達と話していたときのこと。後から思い返して何を話したかも覚えていないくらいの他愛もない話に顔を埋めていると、血の巡りが良くなるのを感じる。そのときは、私が仕事で激昂してしまった話をし、彼はうんうんと聞いてくれてささくれ立った心に水分が行き渡る心地がした。けれど、彼がその後に「そういえばこないだね」と、女の子が目の前で突然泣き出してそのまま帰ってしまった話をし始めたとき、視界の明度がガクンと下がるのを感じたのだった。

彼は恐らく「感情的になってしまうことってあるよね」と寄り添うつもりで話してくれたのだろう。しかし、その話を聞いて私の心は凪ぐどころかグツグツと煮えていくのがわかった。その彼は悪くない。話に出てきた女の子についても悪くない。悪くないというか、少なくとも私に何かしたわけではない。それなのに、私はどういうわけか、その女の子に対して腹が立っているのをはっきりと自覚していた。しかし、何に腹が立っているのかはわからなかった。

「大変だったね」と必死で調子を合わせるも、それまでのトーンに戻れない。私はだんだんとイライラしてきて「その女の子も泣き出して帰っちゃうのすごいよね~、羨ましいな~、私にはできないな~」と平熱を装いながらも沸かせた怒りを白く表出させていく。私の気持ちを知る由もないであろう(不自然な感情なのだから理解できなくて当然だ)友人が「でも、仕方ない部分もあってね」とその女の子をフォローするたびに、道理なき苛立ちが高まっていくのを感じた。そして感情が臨界点に達そうとする折、「ごめん私、その子じゃないからわからないや」と静かに匙を投げた。

「男の人の前で泣いたり怒ったりする女の子になりたかった」

勘の良い友人のことだから私の苛立ちは伝わってしまったはずだ。そもそもなぜ自分がそんなに怒っているのかもそのときはわからなかった。いや、わからないというのは嘘だ。認めたくなかった。

「どうして男の人の前で感情を露わにして、しかも受け入れられているの? 私だって男の人の前で怒って泣いて暴れて感情を露わにしたいのに

その感情は覚えのあるものだった。かつて男の人の前で泣き、拒絶されたときの映像が目の裏側に映る。話に上った女の子は登場しないはずの私自身のヒストリー。それなのに、私の怒りの矛先はどういうわけか彼女に向けられ、どういうわけかそれは“正当防衛”に思われた。

私が手に入れたかったものを、どうして当たり前に持っているの?

その気持ちに気づいた瞬間、私の頭にカレーのルーがぶちまけられた気がした。その瞬間の私は、熱いファンDMを送ってきた女の子であり、渋谷のスクランブル交差点で遭遇した“テロリスト”であり、カレーのルーの彼女そのものだった。

「やればいいのに」という言葉はグサリと人を傷つける

「羨ましい」と言われたとき、「なんで?あなたもやればいいのに」と返してきた。それは、私のやっていることが何ら特別なことではなく、誰にでもできることだと思っていたからだ。厳密にいえば、今だってそう思っている。

ただ、一般的な可能性の問題やスキルの話以外で、自分の意志に反して、“できない”ことがあることを知った。そして、その“できない”の根底には、それぞれの痛みが流れているのだということも。

それら痛みに対して、「やればいいのに」と投げかけることは、それがどんなに純粋なやさしさや素朴な疑問であってもグサリと傷つけてしまうことがあるのかもしれない。場合によってはその人がこの世に存在していること自体に傷つくこともあるだろう。

それは平たく言えば嫉妬にあたるのかもしれないが、頭ではわかっているのに暴走を止められないあの手の感情が〔嫉妬〕という箱に収まりきるとは思えない。自分を否定されるような危機感をかき消すための抵抗といってもいい。もちろん「あなたもルーだけ食べればいいのに」と言う側の人が悪いわけではないし、「私だって男の人の前で怒って泣きたい」と“正当防衛”を発動する側が圧倒的に悪い。

自分がそうした感情の暴走を向けられたとき、あるいは自分がそうした感情を抱いてしまったとき、どう対処するのが良いのだろうということはことあるごとに考えている。「不快だから」とか「傷ついたから」を理由にして叩き叩かれるのは不条理そのもの。でも、だとしたら、だとしても、どうしたらいいのだろう。

カレーのルーだけおかわりをするたびにそういうことを考える。私にとってカレーのルーの単品は、胸がチクリと痛むスパイシーな味なのだ。

illustration :Ikeda Akuri