自分では平凡な人生を送ってきたと思っているが、ただ1つ「これは他人はなかなか経験していないだろうな」というものがある。それは、小・中・高一貫のカトリック系女子校に12年間在籍し、大学・大学院もほぼ生徒は女性のみの環境で過ごした事だ。つまり足掛け18年女子校にいたことになる。「ちょっと男子ぃ~!ちゃんと歌ってよ!」と腰に手を当て怒る学級委員になる以前に教室に男子がいた経験がほとんどないのだ。

ちなみに12年過ごした出身校を、私は「ヘールシャム」と呼んでいる。
カズオ・イシグロによる長編小説『わたしを離さないで』(原題;Never Let Me Go、早川書房)において主人公たちが育った施設の名だ。外界から遮断された閉鎖的な雰囲気が似ているので名前を借りている。

女子校にいつづけたこと、今思えば嫌だった

まず他人に半生を語ると、少しびっくりされその後「ずっと女子校で嫌じゃなかったの?」と問われる。答えはシンプルで「当時は分からなかったが、今は嫌だ」。ここで1つ断っておきたいのは、「女子校そのもの」ではなく、「女子校にいつづけた」ことが嫌なのだ。
なぜ当時は嫌と思えなかったのか。その答えは『わたしを離さないで』にある。
少しだけ本のあらすじを紹介すると、主人公・キャシーは15歳の時に自身が臓器提供のために作りだされた存在だと知る。将来の夢を持つことすら許されず、他人の胃だとか肺だとかになることがヘールシャムの生徒に課せられた運命なのだ。施設から出ると、やがて友人たちの臓器提供がはじまる。クライマックスはキャシーと親友のトミーが、施設の先生と再会するシーンである。ここまで読んだあなたならどうするだろう?「くそくらえ!」とバットを振り回して暴れてみる?「助かる道を教えろ!」と脅してみる?2人はどちらも選ばない。あくまで少しだけ提供までの猶予が欲しいとーー運命の先延ばしを乞うのだ。

主人公たちは、従順で、天命に唾を吐く程度の抵抗しかしない。それがこの小説に流れる静かで哀しい美しさだ。幼い頃から1つの生き方しか知らない子供たちは運命を受け入れている。
ある時、境遇の全くことなる友人と本作の感想を述べあった。

この展開について、「なぜ必死に逃げなかったんだろう」と首をかしげる友人の姿は、私にとって、かなり衝撃的だった。
なぜって、むしろ自分はそこに空恐ろしいリアリズムを感じていたから。自身もヘールシャムから逃げ出そうと考えなかったから。「それって環境に不満がなかったってことじゃないの?」と思うかもしれない。そうではない。そこでしか生きたことがないから違う場所へ行く、という選択肢がないのだ。
毎日、朝昼下校時に十字架を切って家に帰る。違う道もあるらしいけれど、アーメンし讃美歌を歌う生活以外を知らないので、明日も明後日も1年後も12年後もお祈りし続ける。これ自体は女子校特有の問題ではないと私は思う。狭い環境にいる人間の多くは「もっと別の環境があるはずだ」という感覚を持ちづらいのだと思う。結果的に出来上がったのは、受動的で従順なWhy?を見つけられない18歳の少女だった。

女子校を卒業し、入った大学の男女比率は1:9

ヘールシャムを卒業し、入った大学こそ共学だったが、所属学科の学年男女比率は1:9。にもかかわらず教授は全員男性。鋭敏な感性を持っている人なら、この歪さに気づくだろうが、あいにくヘールシャムで鈍感な仔羊となった私は、その運命を静かに受け入れた。
ようやく社会人として本格的に男女混合社会に足をふみ入れ、男性と女性の新入社員の数にそう差はないにもかかわらず、上司は男性ばかりの状況を肌で感じてはじめて、大学時代の歪みに気付くことができたのである。
さて、私が「女子校にいつづけた」過去を否定するのはなぜか。
それは、外側には現実が広がっており、ヘールシャムの永遠の住人にはなりえないからだ。つまり、いつかは男女混合社会で生きなければならない。同校出身の友人と居酒屋で飲んだ時「女性がリーダーになれるのは女子校の美点であり、私たち女性にとって有益だ」と語られた。
はて、そうだろうか。女性しかいない環境で、女性がリーダーになるのは当然である。リーダーシップを発揮した経験を活かして、社会的に成功する人も確かに存在するんだろう。でもそれって完璧な成功体験ではないんじゃないのかな。私たちは馬鹿じゃない。

私もいつかは男女混合社会にでなければならない

『わたしを離さないで』の主人公たちが成長するにつれ、ぼんやりと外の世界の輪郭を知っていったように、私たちも当然、共学(男女混合社会)の存在を知る。社会が、どうも男女平等ではないらしいことも。つまり、その成功体験は箱庭のお遊びだと、頭のすみっこで理解してはいなかったか。外の世界とヘールシャムは、同じではないと本当に気づいていなかったのだろうか。学校の門の内側からのぞき見しているだけだったから、現実はどこか遠く、「じぶんごと」に出来なかったんじゃないか。

私は共学を体験した事がないから女子校と共学どちらが良いかという判断はできない。もちろん、共学にも欠点はあるだろう。しかし、男女が同じ教室ですごす共学の欠点は社会全体の欠点に近いのではないか。この世界に充満するたくさんの男女格差。そのWhy?を見つける力をなるべく早く養いたかったなぁと思うからこそ「女子校にいつづけた」過去を否定するのである。
たとえば、私がひと時でもヘールシャムではない場所でーー共学で学生時代を過ごしていたら。大学時代に「なんでこんなに女生徒が多いのに、教授は男性ばかりなの?」と思えたかもしれない。すぎた季節は戻らないけれど、Why?を見つけ、言葉にできるーー能動的な人間になりたい、と神さまではなく自分に強く祈っている。

ペンネーム:すみれちゃん

アラサー。プロフィールに書けることも特になしっていう、プロフィールです。人生の履歴書を自由に描く為に転職活動中。女子校に18年くらいいた。