『黙って喋って』(ヒコロヒー/朝日新聞出版)
※朝日新聞出版社よりご恵贈いただきました。
社会人として迎えた初めての秋、好きだった人とお酒を飲んだことがある。場所は駅前の大衆居酒屋。その日は金曜日の夜、所謂「華金」ということもあって、狭い店内はほぼ満員だった。客の間を縫うようにして、案内されたカウンターに私たちは二人並んで座る。
元気な学生グループが何組も打ち上げをしているかのような騒々しさのなか、彼は「ちょっとうるさかったね」と言った。たしかに大学卒業ぶりの彼と、近況を報告し合うにはうるさすぎる。こんな内緒話をするにも、声を張り上げないと店内に響く活気にかき消されてしまう。そうだね、なんて曖昧に笑いながら、私は内心これで都合がよかった。静かでお洒落なお店だったらそれこそ緊張してしまう。顔を、食事をしているところを、常に見られないカウンターなのも幸運だった。
◎ ◎
私が彼のことを好きだったのは、大学二年生の頃の数か月間。同い年の彼とは、大学のボランティアサークルで知り合って仲良くなった。皆で初詣を見に行ったり、日帰り旅行に出かけたり、空きコマにゲームをしたり。サークルで旅館に泊まったとき、朝まで二人同じ布団の中で語り合った。
「彼と付き合ってるの?」
たびたび大学の同期から聞かれることもあるくらい、私たちはいい感じに見えていたはずだ。だけどいくじなしの私は、彼への気持ちを自覚することさえためらった。彼に私は不釣り合いだと自分自身に言い聞かせて、溢れ出る「好き」を何度も何度も心の奥底に埋めた。そのうちに私は別の事情でサークルを辞め、彼とかぶる講義も少なくなり、次第に土を掛けずとも彼への気持ちが顔を出すことはなくなった。
◎ ◎
そんな誰にも言ったことのない秘密を、私はつい彼に言ってしまった。アルコールが回っていたから、だけじゃない。途中でトイレに立ったときに、鏡に映った自分が想像以上に可愛かったからである。あの頃よりも上手くなった化粧に、仕事終わりに急いで着替えたお気に入りの服。お酒で潤んだ瞳と赤らんだ頬も相まって、いくじなしで彼に好きだと言えなかったあの頃よりも、今の私はずっと可愛かった。
だから、つい。生涯言うつもりなんてなかったのに。勇気を振り絞ってしまった。
「実はあのとき、好きだったんだ」
私には彼氏がいて、彼には彼女がいた。今更彼とどうにかなりたかったわけではない私が振り絞るべき勇気じゃないことは、口に出してからすぐに分かった。
黙って、自分。彼はなんか、喋って。お願い。
そのあと何の話をしてどうやって店を出たのかを、私は全く覚えていない。
◎ ◎
二年前のこの出来事を、久しぶりに思い出す羽目になった。それは先日読んだ短編集『黙って喋って(ヒコロヒー著)』に、思い出さざるを得ない話が収録されていたからである。
大学時代に仲の良かった智子と壮真は、智子の婚約を機に、数年ぶりの再会を果たす。私たちみたいにお酒を飲んで、昔話に花を咲かせた二人だったけれど、私のような過ちは決して犯すことはなかった。絶対に昔、智子は壮真くんのことが好きだったはずなのに。彼女は別れ際、グレーの、きっと可愛いとはいえないであろうパーカー姿で言う。
「私がなんで今日こんな格好してるかわかる?」
「私、結婚するの。結婚するって、いくじがあることだと思わない?」
どうして彼女が「こんな格好」をしているのか私は最初わからなかった。壮真くんの言う「汚れてもいいから?」以上の理由が私にも思い当たらなくて、これを書くまでに何度も何度も読み直した。そしてやっと書き始めてから一つだけ、思いついたことがある。
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もしかしたら智子も「鏡に映った自分が想像以上に可愛かった」ら、私みたいに愚かなことを口走っていたのかもしれない、と。いくじの見せ方を間違えないように。当時は好きだったことを伝えられないいくじなしだったくせに、それを伝える勇気を振り絞ってしまわないように「こんな格好」をしていたと考えたら、腑に落ちる部分が多かった。
智子の本当の理由を知る由もない。けれどこれから先、お気に入りの服で昔好きだった人に会うことはないだろう。絶対に、可愛くない服で行こうと私は決めた。
今まで出来るだけ意識外に追いやって、見て見ぬふりをしてきたたくさんの感情や思い出たち。『黙って喋って』にはそれらを優しく、ときに無理矢理掘り起こしてくる話ばかり収録されているから、夜眠る前に読むのは控えた方が良いかもしれない。眠れない夜がまた一日増える。もしくは、夢に見てしまうだろうから。
こんな方におすすめ!
誰かに聞いてもらいたい。けど恥ずかしいしみっともないから誰にも言いたくない。そんな出来事を胸にこっそり仕舞っている人におすすめ。
ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」1月31日発売
ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」が1月31日に発売されます。「ヒコロジカルステーション」で連載中の小説を加筆し、さらに書き下ろしも。朝日新聞出版。1760円。