『黙って喋って』(ヒコロヒー/朝日新聞出版)

※朝日新聞出版社よりご恵贈いただきました。

仕事で新宿に行くたびに、人の多さが嫌になる。人間は少し増えすぎた、なんて心の中で悪態をつきながら、男と女がいる中をすり抜けて歩いている。

そう、この世は男と女がいて、多くの男女は(私にはにわかに信じられないのだけど)恋愛をしたり結婚をしたりしている。私はずっと、恋愛は少女漫画に出てくる架空のものだと思っていたし、今も思っている。恋愛感情なんて自己顕示欲と自己承認欲求による空想だと。だけど同時に、少し羨ましいとも思っている。何が良いかは分からないけど、なんか良いなと思っている。でもその理由を考えてみても、やっぱりよく分からない。私が何に憧れているのか。

◎          ◎

ヒコロヒーさんの「黙って喋って」に出てくる登場人物は、私が持っていないものを持っていて、みんな人間らしく悩んだり苦しんだり歩いたり止まったりしている。「そんなんひとりでさっさと判断しなさいよ」「ぐずぐず悩んでいるんじゃないよ!」「ああもうまだるっこしい!」と心の中でツッコミを入れつつ、読んだ。こんな男も、女も、きっとどこかに、そしてどこにでもいるのだろう。ここには特別な人間がいないと思った。私の隣の部屋に彼女はいるかもしれないし、職場で向かいに座る彼女は、実はこの本の登場人物かもしれない。

他人の心と私生活を覗き込んでいるようで、少しの後ろめたさと沢山の野次馬根性が働いた。多分ここに出てくる彼女たちと私は、すでに友達だと思う。そして彼女らが話す「彼氏との話」を、私は頬杖をつきながら聞くのだと思う。そして内心「だったらさっさと別れれば?」「その話、オチある?」と若干バカにしながら聞くのだろう。だけど彼女らは真剣にその話をしているし、真剣に生きているから、私は彼女のことを本当にバカだとは思わない。いいかげんにしろと思いながらも、私は彼女たちを愛おしく思うのだろう。

◎          ◎

本全体を通して、ヒコロヒーさんは登場人物に寄り添わないと思った。「あなたはあなただから勝手にしてください」というくらい、突き放している。私はその突き放し方をとても好ましいと思った。どちらかの性別だけを擁護するのでもなく、誰かだけに肩入れするのではなく、まるで神様のようにすべてを見ている。全員が平等に寄り添われず、本の中の世界で一人の人間として生きている。人間は元来そうだし、誰かだけ神の加護を受けるのはなんかこう、ずるい。

だけど、いや、だからこそ、私はひとりの人間として、この本を読みながら皆幸せになると良いなと祈っていた。主人公だけでなく、全員が。私は会話の中で誰か他の人間を貶すことが嫌いなので(しかも比較対象として他の人を出すことが本当に苦手なので)、「しらん」の里奈の、とある言葉に傷ついた。自分だったら言われたくないし、と少し震えながらページをめくった。だからそのあとの書き下ろし「春香、それで良いのね」を読んで心が救われた。お笑い芸人のライブって楽しいよね。そして某芸人が出てきたときに人がたくさん集まっていたと知って、心からホッとした。

◎          ◎

私は恋愛感情が分からない。だから彼女たちの話をどこか夢物語だと思いながら読んだ。面白いけど感情移入はできないし、勝手にしろと思った。だけど、描き下ろしの「春香、それで良いのね」だけは、読みながら涙が出そうになった。ここに出てくる登場人物だけは、恋愛感情じゃなくて、「愛」で生きていると思ったからだ。私が今まで家族から受けてきた無償の愛情を一気にすべて思い出せるような、そんな話だった。私は確かに愛されて生きてきたし、春香も愛されて生きている。

この話を読みながら、私は母親から愛されながら「自分らしく生きられますように」と思われていたのかもしれないと感じたし、「あなたのことをいつでも大切に思っているよ」と思われていたのかもしれないと感じた。私はこれから誰かと恋愛をすることがないかもしれないが、誰かに対して無償の愛を与えることはできるのかもしれない、と思った。そして同時に、私は私として私らしく顔を上げて生きていきたいと思った。

私は私の信念を持って私として生きていくし、物語の彼女たちは彼女たちの信念を持って彼女としていきていくのだと思う。それでいいんだろうな、と、私はこの本の登場人物と、私自身をまとめて抱きしめたい気持ちになった。人間は愚かだけど愛おしいし、生きていく過程で無駄なことはなにもないのだろう。

こんな方におすすめ!

恋愛が嫌い、人が嫌い、恋愛至上主義が嫌い。そんな人こそ読むべきな一冊です!きっと本編を読んでいらいらすると思います。どっちつかずの関係でぼんやりと生きる登場人物や、はたから見たら幸せそうな登場人物が悩んだり苦しんだりしているから。だけど、だからこそ読んでほしいです。人の苦しみに共感してほしいのではありません。読み終わった後のヒコロヒーさんの後書きに、すべてが詰まっています。だから、後書きのために「黙ってしゃべって」を読んでほしい!後書きを読むためだけでも、この本を読むべき理由が存在します!

ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」1月31日発売

ヒコロヒーさん初の小説集「黙って喋って」が1月31日に発売されます。「ヒコロジカルステーション」で連載中の小説を加筆し、さらに書き下ろしも。朝日新聞出版。1760円。