「恋と受験を勘違いしてしまう」
何の話をしているのかわからないだろうけど、まずは聞いてほしい。
私はハタチをすぎるまで「恋愛はコミュニケーションだ」ということを知らなかった。

私は恋愛を「恋愛大学・彼学部・彼学科」の入学試験だと思っていた。点数さえ取れれば「合格」をもぎ取れる。彼の思う「女としての最低ライン(合格最低点)」を越えられれば「彼女」になれると信じていたのだ。

もちろん最初からそんな極端な価値観を持っていた訳ではない。幼稚園の頃から恋愛への執着はかなり強い方ではあったが、当時は「願えば愛は必ず届く」みたいに考えていた。

「ブスのくせに告ってきた」と言われていた

私が「恋愛得点制」を意識するようになったのは、中学2年の失恋からだ。
バレンタインの日、同じグループの好きだった男の子に本命チョコを渡した。
グループの他の友達に渡した5個とは、ラッピングもレシピも違った。オレンジのストライプ柄にリボンがプリントされた紙袋を渡した瞬間をまだ覚えている。ハートやピンクは恥ずかしいから、あえてそれを選んだ。

放課後「今日渡したのは、本命チョコだから」とメールをした。一晩置いて「ありがとう」的な文面のお断りメールが来た…ような気がするがよく覚えてない。
それよりも「ブスのくせに告ってきた」と言われていたと、人づてに聞いた事の方が覚えている。
その時私は、ディズニー映画でプリンセスが言っていた「真実の愛」とか「心の綺麗さ」とかを越えてくる「容姿」という尺度を手にした。その概念を、知らなかったのだ。それまで「こども」としてやってきた頃はみんな「かわいい」とされていた。だから「かわいい子」と「かわいくない子」という区別すら考えたことがなかった。

突きつけられた「ブス」が惨めだった。ルールを知らずに物語に参加してしまった。ドレスコードを知らずに舞踏会に来てしまった気がした。

彼に許されれば「ブスじゃなくなる」ファッション雑誌が「参考書」

ギャル雑誌からコンサバまで幅広く知見を深めた

だから、「努力」をすることにした。どうしたら「ブス」から「かわいい」に、「ダサい」から「イケてる」になれるかばかり考えていた。「図書室に行くキャラは地味で暗い」というステレオタイプに負けた私は、大好きだった読書をやめた。図書室にもそれ以降行くことはなかった。読むものは全て「ファッション雑誌」。両想いになるための「参考書」だと思っていたのだ。前髪をつくって、初めてマルキューに行って服を買って、「女の子」という「偏差値」を上げるのに必死で努力をした。

「不合格」を打ち消す「合格」をもぎ取りたい。彼に許されたら「ブスじゃなくなる」と思っていた。諦められないほど好きなのかな。わからないけどダルダルと恋愛浪人を3年くらいした。その間にもう1回再受験(告白)をキメているんだけど、この話はまた今度…。

好きな人の過去問があったら、解いたのに

相手は大学ではないので、募集要項も出してないし、願書も受けつけていない。なのに私は「告白」という名の願書を身勝手に提出してしまう。強すぎる好意は時に暴力的だ。
願書を出す前には、「願書…出したいな…募集してる?」という雰囲気を演出したほうがいい。こちらの「いい感じ」とあちらの「いい感じ」がマッチしてはじめて「恋愛」になる。サプライズ出願はよろしくない。

「合格」が欲しくて、あるはずのない合格最低点を探してしまう。元カノは合格者平均点だ。彼が付き合ってきたかわいい子達と自分を見比べながら、まぶたの折り目(差がつく問題)や体重の0.5kg(重箱の隅をつつく問題)と向き合っていた。元カノと比べたって何の意味もない。だけど、当時「高校」という箱の中でスクールカーストに追い詰められていた私は、それに気がつけなかった。

23歳になってやっと、恋愛には「コミュニケーション」が重要なことがわかってきたのだけど、10代の私は目の前の「両想いになる」というゴールに対して「努力」という答えしか持っていなかった。恋愛は「相手」と「私」が関わって初めて成立する。すべきことは、相手と歩み寄ることであって、「努力」や「魅力」に対して「ジャッジ」をもらうことではない。

そのせいで、大学に入ってから好きになった人に「私のダメなところ嫌いなところちゃんと言って振って」みたいな最低の採点要求をしてしまった。足りないところが知りたくて。好きな人に好かれる自分になるためにはどうしたらいいかわからなくて、まだ何が必要なのか教えてほしかった。

好きな人の過去問があったら、解いたのに。顔から火が出るほど恥ずかしい間違った努力の数々を、この連載では綴りたいと思う。

恋の赤本どこですか?

~今回の美人の学び~

「恋と受験は違う。相手に採点を要求してはダメ!」