中学の頃に告白した彼に、「ブスのくせに告って来た」と言われた(らしい)ことは、長く続く私のこじらせのきっかけになった出来事だ。自分がブスだなんて思ってもいなかった私は、(というかブスという概念が存在することを知らなかった)奈落の底に突き落とされた。彼が言っている「ブス」とは、単純な容姿だけではなく、学校での立ち位置やキャラも関連していることに気がついた私は、それから常に「かわいい」とは何か、「イケている」とは何かということを考え始めた。恋愛を諦めたくない。一途と努力の暴走車は、かつて私が好きになった男たちに容赦なく乗り上げてきた。要は恋愛がド下手なのだ。

車止めを置かれてるのに、それでもなおアクセルを踏み続け、「タイヤ回ってますよ」てな状態で、ちょっとバックしたかと思いきや、また勢いをつけて、全速力で挑んでしまう。

「願いは自分で書かないと叶わない」

思い返してみれば、恋愛にかける熱量が異常に強い子供だった。
幼稚園児の私には幼なじみの男の子ひろきくんという絶対的フィアンセがいた。園で七夕の短冊を書くことになった時、私は「ひろきくんとけっこんできますように」と先生に書いてもらった。(幼稚園児ということもあり、一人ひとりの願いを口頭で聞き、先生が代筆してくれるというシステムだった)

しかし、5歳の私は恐ろしいほどに念が強い女であったから、「願いは自分で書かないと叶わない」と思ったのだろう。ご丁寧に先生の書いてくれた文字の上から「ひろき」の部分だけ自分の習いたてのひらがなで、上書きしているのだ。

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さらに短冊の裏面には、ひろきくんと私の結婚後の様子(そこはかとなく、私の父と母に似ており、ひろきくんにはヒゲがはやされている)がイラストで描かれている。恐ろしい。

アルバムに収められている私とひろきくんの写真には、園児らしい満面の笑みを浮かべるひろきくんの隣で手を繋ぎ、満足げにほくほくとメスの顔をした5歳の私が写っている。

かと思えば年長になった頃から、いつも優しい電車とおジャ魔女どれみを愛するマイプリンスひろきくんに物足りなさを感じ始め、ちょっぴり意地悪で仮面ライダーが好きなやんちゃ系のしゅんやくんのことが気になり始める。そういう「好きだけどこんな気持ち言えない…!」みたいな恋もしてみたかったのである。

女友達を突然遊具の裏に呼び出し、体育座りをさせて「しゅんやくんってさ……本当は優しいんだよね……」なんてうつむいて言ってみたりした。もちろん私の独りよがりな恋愛ごっこが理解できるはずもない友達(5歳)は、「うん」と言うだけだった。「そうだよね……」「ほんとはかっこいいよね……」みたいになると思っていたので、間が持たなくなり、私たちは何事もないように鬼ごっこに戻った。そういう、マセたことがしてみたかっただけなのである。

そう、幼稚園の頃から変わらず、常に私の恋は一方通行であった。相手の気持ちを考えておらず、自分の気持ちを降り積もらせる過程が楽しすぎて、それでいっぱいいっぱいになってしまう。今までかけた迷惑を思い返すと、謝っても謝りきれない。

恋愛も努力でなんとかなると思っていた

恋愛なんて相性やコミュニケーションの話なのに、私は、努力でそれを覆そうとしてしまう。冒頭で述べた、中学の頃告白して振られた彼との恋においては、貼られた「ブス」の評価を覆したくてそれから何年にもわたって彼を追いかけることになる。実際彼に告白した頃の私は、本当にブスだったので、前髪を作り、ダイエットをして、それなりの年頃の女子の容姿になれたのには感謝している。しかし私はそれをはるかに超える、間違った方向の感情と努力を彼に向けてきた。

手に入れたいものを手に入れたい。だけど恋愛には「相手の気持ち」があることを私は認識するべきだった。

「いっぱい好きって言ったら好きになってくれると思ってたんですよね」
先日過去を振り返って私の口から出てきた言葉だ。これには自分でもびっくりした。ひどく反省している。ここであっけらかんと、過去にしてきた出来事を綴る私を軽蔑する人もいると思う。そんなこと、された側はたまったものではない。振られた方が被害者になっていいなんてことは少しもなくて、人の好意を受け取ることがいかに難しいかということを、私はもう知っている。中学生の男の子ならなおさらだ。

それでもなお、私を責めずにいてくれた彼には、ありがとうとごめんなさいをいつか伝えなくてはいけないなと思っている。

体当たりのような恋心しかぶつけることができず、好きな相手を困らせてしまう。受験勉強を頑張って、焦がれるほど願った早稲田大学に入り、東大の院に入学した。子供の頃、泣きながら公園のうんていを端から端まで伝っていけるまで挑戦した。涙ぐましい努力をして、クリアしてきたことがあった。だけど、恋愛に限らず、人間と人間の関係だけは、努力でねじ曲げられるものではないのだ。それが今の私にはわかる。肩の力を抜いて、自分があるべきところのあるときに、流れてくるご縁がある。結ばれないご縁や切れる縁もある。そう気がついた時に自然と涙が出てくることがあった。

今まで体当たりしてしまったみなさんに、ごめんなさい。本当にごめんなさい。恥ずかしく愚かな、自分中心の行動しかとれなかった私を、どうぞ嫌ってください。

私は誰かにタイヤを向けない

好きという感情は暴走車で突っ込んでいいということではない。自意識ばかりが先行して相手のことが思いやれなかった自分に後悔が募る。自分の価値を低く見積もり、自分のような人間が相手に好意を伝えたことで相手に影響があるなんて思ってもみなかった。そういう、自分を大事にできない人間は、好意を寄せられた相手側のことも大事にできないのだ。

恋の暴走車に乗るのはもう二度とやめようと思う。だけど気がつけばアクセルを踏んでしまっていることに気がつく瞬間が幾度ともなくある。そのたびに、私は、過去を反省し、自分を諌め、好きな人を轢き殺さないようにブレーキを踏む。

私が努力を向ける先は、誰かの愛を得るためではなくて、自分の成長のためだ。私は誰かにもうタイヤを向けない。「恋」というゴールを捨てて、自分が向かう先だけ見つめて、アクセルを踏むことにした。それを、今日ここで誓う。私は私の道を爆走した先で出会える人と、いつかきっと楽しいドライブができる日を楽しみにしている。