長閑な田園風景。腰の曲がったお爺ちゃんお婆ちゃんが畑を耕し、ランドセルを背負った子供達があぜ道を走って「ただいまー!」と幼い声を上げる。隣の家は数百メートル先。追い焚きをするには薪をくべるお風呂。最寄駅は山を越えた隣町。そんなありふれた日本の田舎。私はそんな山奥で兼業農家の真ん中長女として育った。

田舎の7人が住む家と言ったら、和やかに食卓を囲み談笑しながらご飯を食べていると思う人は多いだろう。しかし、ウチの大きくて立派な庭と柿の木、杉の木と高く建てられた日本家屋はハリボテで、その実、機能不全な家族だった。

『良い子にしないとお母さんがおばあちゃんに悪口を言われる』

食事でテーブルにつく時はいつもビクビクしていた。物心ついた時から祖父母は決まって御飯時に派手な喧嘩をしていた。茶碗や箸が飛び、絵の描かれた擦りガラスはひびが入っていた。それでも黙って下を向いて黙々とご飯を口に詰め込む両親と兄弟。
毎日毎日毎日、怒声を聞きながら食べた母の手料理は味がしなかった。

祖母は祖父との喧嘩のフラストレーションを母にぶつけた。嫁いびりとして。「どんな教育を受けてきなさったのかねえ」「子供のしつけもまともに出来るかどうか分からないのに他人の子供の世話ばかりして」小学校教諭として働く母への嫌味は凄まじかった。母の悪口を孫娘の私へも言ってくる程だった。

兄、私、弟はよく出来た子供だったと思う。田舎で特に娯楽があるわけでもないのに、あれこれおもちゃが欲しいだのお菓子が欲しいだの、駄々を捏ねたことは一度もなかった。スーパーでも合計金額を言い当てられるかといったゲームをする。スーパーへの道のりでは前を走る車のナンバープレートの数字を使って10を作る遊びをした。賢く聡い兄姉弟だったと思う。

それでも母方の祖母は、母への嫁いびりが心配で「良い子にしなさい。良い子にして母を助けなさい」と口酸っぱく私達に告げていた。

『良い子にしないとお母さんがおばあちゃんに悪口を言われる』

祖母から直接母の悪口を聞いていたのはおそらく兄弟の中でも、女の私だけだっただろう。母方の祖母の毎度のそのセリフを聞くと、「良い子にならなきゃ」と自制する己の言葉が何回も頭の中をループした。

いつも1番出来の良い兄が褒められ、弟が可愛がられ、私は透明人間だった

やがて高校で市外へ出て寮生活となり、大学で県外に出て実家と疎遠になった。それでも就活で転けて不眠症になったら、母方の祖母の「良い子にしなさい」という声が聞こえてきた。
テストで100点を取っても褒められたことはない。高校に合格しても褒められなかった。いつも1番出来の良い兄が褒められ、弟が可愛がられ、私は透明人間だった。

結局この悪性な凝りは、27歳で大きな鬱の波が来て、布団から出られない、怖い、と泣いて実家に避難して毎日母にポツリポツリと懺悔することである程度は柔らかくなった。
それでも、父は双極性障害を検索することもなく「怠け病」と言い放ち、「てめぇのせえでこうなったんだろーがよお!」と泣き喚いて返した。

私は私を救いたいのに、その方法が分からない

未だに実家には問題が山積みだ。まずは認知症の進む御齢91の祖母の介護を嫁いびりされていた母だけがしていること。実子である伯母と父はノータッチ、金も出さねば口も出さない。その愚痴を娘の私のみに母は毎日電話して話す。兄も弟も現状を知らない。
母に頼られている。それでも私は透明人間に思えてしまう。私の中に積み重なっているこの呪いのような鉛のような苦しさは誰にも見えないのだ。

私は私を救いたいのに、その方法が分からない。家族と向き合うしかないとしても、父は向き合ってくれない。母は愚痴ばかり溢す。兄と弟は男だから。私は女だから。

下座に座って食べるご飯、男達が入った後のぬるくなった風呂にやっと入る。そんな田舎で育った女は、透明人間なのだ。

エールのために、幼い私の気持ちをお焚き上げするために、私は書く

だから私は書くのだ。存在の証明、戦う意義は私が生きる価値にある。
立ち上がれずとも書く。私の脚の持病が悪化して、一人で立てなくなっても、私は書く。
エールのために。
あの頃の幼い私の気持ちをお焚き上げするために。

あなたはどうする?
私は先に行って荊を文字で断ち切っておくよ。
ついてくる?
いつでも追いかけてきて。
全速力だよ。
待ってなんかやらないよ。
でも、いつでもおいで。