「また痩せたんじゃない?」
数年前に大規模なダイエットに成功して以来、会う人会う人からそう声をかけられる。
「まぁ何とか頑張ってます~」
恐縮したり、曖昧な返事をしているが、体重は57kgから一向に減らないし、今は好きなアーティストのライブで足をつらない程度に軽い運動しておこうってくらいだし、何よりこのやりとりに心底うんざりしている。

痩せたら周囲の人の反応が大きく変化した

元々肥満体型で24歳の時に体重計の針が一周した。その直後に急用で小走りしたところ息が上がって呼吸が苦しくなり立ち上がれなくなった。すぐ回復したが、この時に初めて死の恐怖を感じた。夢も希望もないけど好きな俳優の舞台も見ないで死ぬのは嫌だなぁと思い、一念発起。食事制限と運動で約40kg減量した。

痩せたところで私の適当な性格や日常は変わっていないが、周囲の人の反応は大きく変化した。会えば「痩せたね~!」から始まって、ダイエット方法など根掘り葉掘り聞かれる。私も調子に乗って「70kgになった時、足の爪が自分で切れて嬉しすぎて泣いた」等のエピソードを交えつつミニ講演会を開催する。
どこへ行っても「この人昔はすっごい太っててさ」から始まり、初対面の人は信用しないので、肥満時代の写真を惜しげもなく晒すと爆笑の渦。大嫌いな職場の飲み会等どこに行ってもだいたいウケる、私の鉄板ネタだった。

太っている時は「全然気にしなくていいと思う」なんて言ってたのに、今になって馬鹿にされることが腹立たしい反面、私もこれでようやく人権を得たなんて勘違いしていた。だからこそ、停滞期に突入してダイエットがうまくいかなくなると、自分はまた人間扱いされなくなるのではないかと不安だったし、何よりも話せば話す程太っている時代の自分を自分自身が否定しているように感じ、虚しさがこみ上げてきた。そうこうしているうちに周囲が飽きたので私のデブいじりはなくなったが、定期健診的な感覚で体型について指摘されるので、自分に「なんかごめん」と思っている。

ストレスがかかると「ドカ食い」をする癖がついた

私が太りだしたのは10歳の時だった。両親の不仲により家庭環境が一変し、とにかく家にいることが嫌だった。学校では一部の男子生徒による女子生徒へのいたずらが横行していてこちらも居心地が悪かった。当時の私にとっての唯一の楽しみといえば、友人と駄菓子を食べながらミニモニか『ハリー・ポッター』の話をすること。
そのあたりから、ストレスがかかるといわゆる「ドカ食い」をする癖がついてしまい、受験と海外留学が拍車をかけ、100kgになった時はもはや呼吸と同じように常に何かを食べていなければ落ち着かなくなっていた。

過食を何度もやめようとした。未開封のお菓子を全てゴミ箱に捨てて「二度と買わない」と泣いて誓ったこともあった。食べ過ぎてしまった時は、少しでも身体に残らないようにと夜中まで散歩した。食べたものを無理やり吐き出したりもした。それでも、ドカ食いをやめられなかった。だって、食べることは他人を傷つけないと思っていたから。言葉や暴力は他人を苦しめたり傷つけるし、それを振り上げるほど、自分自身も傷つくことを思い知らされてきたからだ。

本音を隠すために「お腹減った」と小さいウソをつき続けた

今の人となりに至った理由は千差万別だ。そして、そこにはそれぞれの「天国」と「地獄」が共存している。こと見た目については、SNSなど他人からの評価や批判を受けやすくなったこともあり、両極端に振れやすいと感じている。私は誰も傷つけず、なおかつ自分を癒す手段として食べることを選択した。世の中には美味しいものがたくさんあって、それがコミュニケーションの緩衝材にもなるし、他人も私も幸せになれる「天国」だった。

そして、本音を隠すために「お腹減った」と小さいウソをつき続ける「地獄」も味わった。家族が離散してほしくない、男子に「やめてよ」と叫びたい、飲み会で「人を見た目で判断するな」と言いたい!と怒り狂っている自分の口に揚げ物やお菓子を突っ込んで黙らせていた。それがほんの少しだけ死を感じたことで、自分自身に食べ物を突き付ける狂った自分がようやく我に返った。

ものすごく大げさなことを言うが、人は「死」を見つめた時に絶望を感じたとしても希望を探そうとする生き物なのかもしれないとさえ思う。それは自分をことを一番大事に思っているのは、自分自身にほかならないからだ。

正直言って、今も痩せたいという思いはある。だからこそ「また痩せた?」という問いに対して「はい」と言ってしまう。でもドカ食いはせずに「と言いたいところですが、全く変わらないですね」とたまに本音を打ち明けることもある。太っていた時の自分をウソから解放したことだし、もうあの子をネタにするのはよそう。