「この人生、どんなに遅くとも50代のうちには終えたい。」

そんな話をふと職場の人たちにしたことがある。そうしたら「病んでる」と苦笑され、まるで異星人にでも遭遇したかのような目でみつめられた。

私にとってこの想いは、たとえば「仕事を休んでハワイに行きたい」とか、「すてきな恋人がほしい」といった願望とならべられるものだ。決して深い絶望などではなく、ただの純粋な願望のひとつにすぎない。

だから「病んでる」の一言で片づけられるのは、正直心外だ。でも、この願望を口にするたび肌は感じていた。どうやら「人生は50年くらいで終わりでいいな」と思っている私は少数派らしい、と。少数派は、多数派によって異質なものとして排除されたり、揶揄される対象になりやすい。その実感がいくつも重なって、私は次第に口をつぐむようになった。

ネット上で始まったこの友情がこんなに長くつづくなんて

そんな私を受け入れてくれたのは、SNSだった。

中学生の頃からコブクロが好きだ。しかしこの「好き」を共有できる人が身近にいなかった。この想いを誰かとわかちあいたくてしょうがなくて、そこで飛び込んだのが、Twitterだった。

Twitterを始めなかったら、絶対に出逢っていなかった人がいる。そんな“彼女”とは、出身地も、通っていた学校も、住む場所も、目指す先も、何もかもが違っていた。共通点は「コブクロが好き」、たったそれだけ。

話題はコブクロの話から次第に日常生活の話へ、それぞれの過去の話へ、そしてそもそもの価値観の話へ。果てにはネットを飛び出し、実際に顔を合わせもした。それからは何度も何度も会っている。

驚くことに、私と“彼女”の価値観はよく似ていた。「人生は50年くらいで終わりでいいな」と言ったって、“彼女”が「病んでる」と返すことはなかった。だから身近な人に話せない想いも、“彼女”が相手なら何だって話せる。母が亡くなって悲しみに食いつぶされそうだったときも、まっさきに連絡をとったのは“彼女”だ。

知り合ってからもう8~9年経つと思う。青春をともにした学生時代の友人ですら、もう連絡を取り合っていないのに。ネット上で始まったこの友情がこんなに長くつづくなんて。思ってもみなかったことだ。

勉強がつらい。彼氏と別れた。来世はねこに生まれたい。あの子が嫌い。生きづらくてしょうがない。写真を始めたよ。どうしようもなく悲しい。仕事しんどいね。どうしよう、恋が始まっちゃったかもしれない――ふざけたことから真剣なものまで、たくさんの言葉を交換し、想いを共有し、そして共感しあってきた。

SNSがある時代に生まれてよかった

「無事に婚姻届を提出してきたよ」

そして“彼女”は、ついに生涯の伴侶を得た。

そして私は、“彼女”の結婚式に参列することになった。

「コブクロが好き」、ただそれだけを分かち合うために始めたTwitterで、自身の結婚式に招待してくれるような友人ができたこと。それは、奇跡とか運命とか、そんな言葉が安っぽく感じられるぐらい、この目に輝いて映っている。

自分の価値観を共有できる人など、この世界にはいないのだと思っていた。でも実際は、学校の教室とか職場とか、ほんの氷山の一角をみて世界を知った気になっていただけ。この足でもう少し先へ歩いてみたら、そこには広大な海が広がっていたのだ。

そしてそこに“彼女”がいてくれた。

「SNSがある時代に生まれてよかったな」と思う。Twitterがなければ、出逢うことすらありえなかった私たちだから。

ともにこの時代に生まれ、ともに同じ存在のファンになり、ともにSNSの世界へ飛び込んだ――そんな幾重の偶然を抱きしめながら、私は“彼女”に言葉を贈る。

「結婚おめでとう。その穏やかな幸せがずっとつづいていきますように。そして、これからもよろしくね」