私は大学現役合格に失敗し、1年間浪人をした。

絶対に嫌だと思っていた浪人生という肩書きを背負いつつ、がむしゃらに勉強した1年間。
地元とは離れた予備校に行き、寮にも入った。
模試の結果に日々が左右されていた。

親に迷惑をかけている。
高校時代の友達はキラキラ大学生になっている。
19歳になってもまだ高校の勉強をしている。

考えれば考えるほど目を背けたくなる現実や自分という存在に、しっかり向き合った時間でもあった。それは志望校合格だけを目標に過ごした1年間といっても過言ではない。

1年間の努力の末、待っていたのは過去最低点。その現実に、絶望した

それでも、センター試験の自己採点をした私に待っていたのは、1年間やってきた中での過去最低点だった。都市部の国立大学を目指していた私は、その大学を諦めて3月下旬まで虚無感と共に過ごした。

地元の地方国立大学からは合格通知が届き、親族がそろって「良かったね」と言ったのを覚えている。

全然良くない。何がいいの?この1年無駄になったのに。

なんて思いながら聞き流した。
もちろん、私はこの現実が受け入れられなかった。

あんなに勉強したのに過去最低点って何?
人生終わった。

思考はネガティブにネガティブを重ね、大学進学すらも興味なくなっていた。
もともと0か100かという考えが強かった私にとって、志望校以外の大学なら行く意味がないのでは?とすら考え始めた。

進学を辞めようと思い、短期間で効率よく働けると評されていたリゾートバイトの面接にも応募した。
落ちるところまで落ちる、の意味がわかった気がしていた。

投げやりだった私が踏みとどまれたのは、祖母の言葉があったから

見かねた母は祖母に電話し、祖母は私を諭した。
遠方に暮らしていた祖母との電話は30分くらいだったと思う。

祖母は私に

「私は両親を早く亡くしたから、中学までしか行けなくてね。それでつらい思いをしてきたこともあったから子どもや孫には大学まで行ってほしいの。」

と伝えた。

祖母は私にとって身近な憧れの存在だった。
強く逞しく、時には厳しい。
そんな祖母が伝えた言葉は私にちゃんと響いた。
80になる祖母の夢を叶えてあげよう、そんな気持ちでリゾートバイトの面接をキャンセルし、入学金を振り込んだ。

順調な大学生活。けれど、「1年遅れのスタート」はどこか重石だった

大学生になり、仲のいい友達もできた。バイトも初めてした。
ずっとやってみたかったボルダリングのサークルにも入った。

そう。思ったより、私の大学生活は順調だった。楽しかった。

ただ、私が進学した大学には浪人生が少ない。ましてや文系ともなると1割もいない。

正直、数カ月前まで高校生をしていた大学の友達と私の間にも言葉では説明できない違いがあった。話していても「若いなあ」と思ってしまうし、どこかお姉さんのように扱われる。それはバイト先でもそうだった。同じ学年なのに、知り合いにいる先輩の友達だからと敬語を使われ、気を遣われる。狭い世界に飽き飽きする上に、あまり居心地は良くなかった。そして、やっぱり話していてもノリや温度が違う。

過ごした時間は1年なはずなのに5歳ほど年老いた気がした。

何も知らない人からすれば、私の1年はただの浪人生活なんだと思う。
ひたすらに勉強をした1年間であり、結果、それは実を結ばなかった。
結果しか求められない1年に、私は応えられなかった。
実際に母には「1年棒に振ったね。」と言われた。

思い返してみると、大学に入る前に行った高校時代の友達との集まりでは大学あるあるがわからなくて疎外感があったし、焦りもあった。その日は泣きながら帰ったっけ。

今は胸を張って言える。人生初の挫折は、人生で一番成長できた1年

でも今なら言える。

あの1年はどの1年よりも濃く、成長できた1年だった。

浪人生活の1年から学んだことは山ほどある。
どれだけ頑張っても叶わない夢はあると知れたし、寮生活で他人と住む経験もした。実際、寮生活の経験は大学で一時的にした共同生活でも役に立った。浪人時代に出会った友達には弱い自分も見せられるし、つらかったことも気張らず話せる。自分にどういう考え方のクセがあるかも、当時を客観的に見ることでわかったし、新たにやってくる試練も浪人ほどつらくない、とポジティブに考えられるようになった。

それまで大きな挫折を経験したことのない私にとって、浪人失敗は初めての挫折だった。
人より遅れてしまってはいるけれど、だからこそ私はその1年をなかったことのように塗りつぶしたくない。