わたしは、自分にウソをついて生きてきた。ずっと。
小さい頃から、感情を表に出すのが下手だったわたしは、「相手に合わせる」ことで自分という人生を繋いできた。不意をついて出る言葉こそウソなのに、それが自分の本心だと疑わなかった。

学生時代、女というものはとにかく群れた。その集団の中に属さないものはハブられる。弱いわたしはハブられることの恐怖に慄きながら、それでもその恐怖を隠すようにして友だちと過ごした。やりたくもないイベントに参加し、興味のないことに振り回され。それをあたかも楽しんでいるように笑って、過ごした。仮面を被るのは、得意だった。

自分に重ねたウソ。
やりたくないのに、「やりたい」と偽ったこと。
興味がないのに、「興味がある」と偽ったこと。
それはどれも小さな小さな、他愛ない塵のようなものなのに、積もり積もってわたしの中で大きなウソのお化けと化した。

ある日、「合わせる」ことができなくなって

転機は高校を卒業して専門学校に入学して1年を経った頃だった。
専門学校は、大学と比べ少人数。「クラス」という小さな箱の中で4年間ずっとその同級生と密に付き合わなくてはならなくなった。
グループで実習を行っている最中、わたしはとある同級生の言葉と態度に、自分の中の何かが壊れる音がした。それは今でも覚えていて、その「感覚」はわたしの身を震わせる。
大したことのない、同級生にも悪気はない、そんな言葉だったと思う。それでも、当時のわたしはどうしてもそれに「合わせる」ことが出来ないと思った。したくない。そう思ったのだ。以来、わたしは単位に影響のない範囲で「意図的」に専門学校を休んだ。
どうしても人に「合わせられない」出来事が増えたからだった。

このままでは、ハブられる。孤独になる。
でも、人に合わせられない。苦しい。

相反する感情に悩まされ、答えは出ないままわたしは学校生活を全うした。しかし、残り2年という丁度節目の年まで来て、とうとうわたしは頑張れなくなった。課題、授業の忙しさに心がついて行けず、悩みに悩んだ末、中退することを選んだ。

自分と向き合って

療養も兼ねた、期限のない夏休みが訪れた。
わたしは、これを機にアルバイトをしてみたり、読書に没頭したり、気になる通信教育を受講したりした。この時、手助けしてくれた両親には頭が上がらない。
そんなある時、ふと気づいた。

今わたし、すごく生き生きしているんじゃないか、と。

そこで、ノートに自分の気持ちを書くようになった。書く内容は何でもよくて、素直に心から思ったことや考えたこと。1人で美術館に行ってみたい、だとか、時間を気にせず読書に没頭したいだとか。本当はもっと文学の勉強をしてみたいだとか。
そこで初めて、わたしは友だちどころか、家族にさえ小さなウソをついて生きてきたのだと知った。

わたしは、人が好きだけれど、付き合い方を知らない不器用な人間なのだと理解した。正直、もっと器用な人間だと思っていただけに驚きを隠せなかった。

私と人とウソとの上手な付き合い方

小さなウソ。
それは自分にウソをつくことが日常として当たり前に溶け込んでいた。時には自分を苦しめて、時には自分を守るためにわたしはウソを重ねた。

私は私。他人(ひと)は他人(ひと)。
ある本で読んだ言葉。わたしはこの言葉をお守りのように心に留めながら、生きていくことを決めた。もう自分にウソはつきたくない。特に、「苦しいウソ」は。

今現在、わたしはほどほどに人との距離と時間を保ちながら、暮らしている。
相手がいる限り、長年のクセになってしまった「自分にウソをつくこと」は容易に止められない。それでも、確実に今までよりは自分らしくのびのびと過ごせるようになった。それはきっと、自分に小さなウソを重ねていたことに気付いたからこそだろう。
わたしはきっと、生きている限り小さなウソをつくだろう。でも、それで自分が苦しむのはもう、やめるのだ。