「家」にいる私と「外」にいる私は別人である。まるで二重人格のように、私はうちとそとを区別して生きてきた。

「家」にいるときの私はおうちモードの私

服装や見た目であれば「家」と「外」で異なる人はたくさんいるだろう。例えば、家ではジャージで過ごすが、外に出かけるときはお気に入りのワンピースを着たり、家ではノーメイクだが、外ではばっちり真っ赤なリップを塗って出かけたり。しかし、中身はどうだろう。中身、つまり、心だ。

私が別人になるのは心である。見た目は家でも外でも然程変化はない。おしゃれをしたい気分のときは家で過ごす日でも新しく買ったアイシャドウを使ってメイクをするし、かと思えば、すっぴん、たまに眉毛は描くが、その程度で出かけることもある。

しかし、いくらメイクをしていても、「家」にいるときの私はおうちモードの私なのである。基本的には誰とも関わらず、自分の殻に閉じこもる。家族との会話は多少あるけれど、外に出るつもりは毛頭ない。友人から遊びの誘いを受けても一切断り、下手をすればLINEの連絡すら応えない。そもそも通知を消しているので見るつもりすらない。

だからと言って、インドアな性格なわけでもない。「外」に出ると決めた日は朝から晩まで外にいる。店の開店時間を逆算して電車に乗り、出かけている間であれば友人からの突然の誘いにも乗る。仕事も私にとっては「外」の出来事だから、仕事の日は帰りに寄り道することも多々ある。
しかし、一度「家」に帰ってしまうと心のシャッターが下りる。スイッチが切れてしまったように、私は「家」の私になってしまうのである。

テレワークで「家」と「外」の境界線が曖昧に

そんな私に強敵が現れた。テレワークである。世の中は働き方改革だのコロナ対策だの、とにかく家にいることを強いてくる。しかし、テレワークは家と仕事をつないでしまうのだ。

初めてテレワークを実施したとき、私は不安や焦りに苛まれ、二日でギブアップした。もともと私は仕事が苦手である。仕事がきっかけで体調を崩したことがあり、今は働いてはいるが完全に傷が癒えたわけではない。
そんな抵抗感のある仕事が「家」に入り込んでくるのだ。しかも、パソコンを通して「家」と「外」の境界線が曖昧になり、私はどちらの自分を演じればいいのかわからなくなった。しかし、世間はテレワークを良しとする。万人にとって正しいことのように、素晴らしい取り組みのように。

世間的に良いとされることが本当にすべての人にとって良いことだとは限らない。物事はもっと多面的ではないだろうか。
例えば、世界中が絶賛する映画があるとする。あなたは期待してそれを観る。しかし、期待外れで何がおもしろいのかわからなかった。でも、世界はそれを傑作だと称えるのだ。
では、あなたの感性は間違いなのだろうか。私は違うと思う。そこには正しいも間違いもない。ただ、大多数がおもしろいと受け入れただけで、あなたにとっては駄作だった、それだけである。

テレワークに話を戻そう。テレワークの場合、映画と違うのはコロナが蔓延る今、それに順応しなければ命にかかわるというところである。「家」と「外」をつなぐことへの苦痛とウイルス感染するリスクを天秤にかけたとき、私の心はどちらに傾くのか、それを常々考えなければならない。

テレ飲み会で「家」と「外」がついにつながり始めた

天秤をふらふら揺らしていた私であるが、最近、「家」と「外」がついにつながり始めた。テレ飲み会である。友人からテレ飲み会に誘われたとき、正直なところ抵抗があった。しかし、チャンスだとも思った。私の天秤を壊せるかもしれない。

そして私は初めてテレ飲み会をした。外で会っていれば全く緊張する相手ではない長年の友人相手に、私は心臓をバクバクさせた。しかし、五分、十分と過ぎてみれば少しずつ気持ちは楽になった。私はやっと「家」と「外」をつなぐことができたのである。
ただその日はどっと疲れた。ビデオ通話が終わった後、息切れをしてベッドに倒れた。まだまだ私の二重人格は治りそうもない。しかし、私にとっては大きな一歩だった。

コロナが終息すれば私はまた「家」と「外」で別人になってしまうだろう。しかし、それは悪いことではないと思っている。ただ、どちらの私も受け入れてくれる人がいれば、きっと心強い。今はちょっとした訓練の期間だと思うことにして、明日も私はテレ飲み会をする。私の心のうちをさらすことが少しだけ楽しみになってきている私であった。