ウソは、降り積もるのだと知ったのはいつだっただろうか。
私は、ウソをついてはいけないとは思わない。勿論、食品の産地偽装や、既婚なのにフリーと偽って恋愛することは問題がある。法に触れたり賠償が発生したりするからだ。でも、少しくらい話を盛るとか、言いたくないことは言わないとか、誰にも損害を与えないウソなら、問題ないと思う。

問題ないどころか、ウソが推奨される場面というものも、ある。例えば道端で出会ったナンパしてくる人相手とか。全ての人に対して正直である義務なんか、誰も負っていないのではないだろうか。

「ウソはいけない」と教育された。それでもウソをつく。

こんなことを書いている私だけど、小さい頃は「ウソはいけない」と教育されてきた。それはそれは厳しく言われてきた。それでも子どもはウソをつき、バレて怒られる。
怒られるなかで私が学んだのは、正直に言って怒られるか、ウソがバレて怒られる以外の選択肢があるということだった。その選択肢とはウソがバレずに怒られずに済む、だ。

ウソをつくのがだんだん上手くなった。辻褄合わせにアリバイ作り、何でもない風を装うこと。ウソをつくのがうまい人を真似したりもした。

最初はその小さなウソがバレやしないか、いつかバレるんじゃないだろうかと緊張していたものが、だんだん楽しくなってくる。そして最初のウソが何だったかすらも覚えていない。この事実を知っているのは私だけで、何も知らない相手が滑稽に思えてくるのだ。こうなるともう楽しくて仕方なかった。

もちろん子どものウソなので、気づいたけれど指摘せずに留めた大人もいたかもしれない。でも、それだって得したなと思ってしまう。正直に言えば怒られていたところを、ウソをついたから怒られずに済んだのだ。ラッキーでなくて何だろう。

せめてもの自衛でウソをつくことは良いのではなかろうか

「ウソはいけない」という教育はやめた方がいい。その代わりにどんな場面でならウソをついても良いのか、どんな場面でならむしろウソをつくべきなのかを教えるべきではないだろうか。

例えば、家にやってきた知らないおじさんに、「両親は留守だ」と言わずにおくべきではないだろうか。親しくもないのに個人的なことを聞き出そうとする人にはNOと言えたらいいけど、言えないならせめてもの自衛でウソをつくことは良いのではなかろうか。「ウソはいけない」を真っ正直に信じていては、危険な目にあい、傷つけられてしまうこともある。

私はそんなことを考えながら、小さいウソを重ねてきた。大事な友人以外のほとんどの人を"騙した"ことがあるかもしれない。

ウソって、心を許していない相手から自分を守るためにつくものなのかも

ここまで書いていてふと気づいた。ウソって、心を許していない、信頼していない相手から自分を守るためにつくものなのかもしれない。道端で出会ったナンパしてくる人とか、親しくもないのに馴れ馴れしい人とか、本当のことを言っても受け入れてくれないだろう人とか。

例えば、こんなウソ。私は結婚なんかするものかと心に決めている。でも職場で、「結婚したらわかるよ」と言われても結婚願望がないとは言わない。私がそこに当てはまらない可能性なんて考えてもいないんだなと失望して心のシャッターを下ろす。ガラガラ。二度と開くことはない。

そして「そうなんですか~」なんて言っている。本当のことは、これまでも、これからも、ずっと、言わないだろう。本当の私なんて、あなた達程度には見せてやらないのよと少しばかりの毒を吐いてみる。これだけで、平穏に過ごせる。ウソ、大活躍である。

こうして考えてみると、ウソつくことは悪いことじゃないと思う。大切な自衛の手段じゃないか。最初に挙げたような、誰かを傷つけるとかそういうウソはダメだけど、それ以外のウソは大丈夫。安心してついていいよ。バレないようにね。正直であることよりも、あなたが傷つかないことの方が、ずっと大事なんだから。