「好きなタイプはSNSに疎い人」
そう言えば私との恋愛発展可能性は急降下するかな。なんて言ったって大統領が親指ひとつでツイートする時代。今時SNSをしていない若者は野生のコアラと肩を並べる絶滅危惧種と言っても過言ではない。とは言えエンターキーがどこにあるかわからないようなおじいちゃんと恋に落ちる予定もないわけで…
恋人がSNSに私のことを投稿する。これは多くの人にとって喜びに値するらしい。なのに私は全く喜べなかった。むしろ興醒め。嘆く私に友人たちは不思議そうな顔をしたり、時には「そんな悩みは贅沢だよ。大事に思ってくれている証拠なのに!」と羨ましがったり窘めたり。
デートの写真と感想。記念日には私に対する感謝と愛のメッセージ。喧嘩をすれば自分の言動を悔やむ言葉の数々…
ネットの海に漂流するそれらを見て私は何をどう感じ取ればよかったのだろう。結局最後までわからなかった。
彼は私の存在で自分の価値を確かめていた
とある元恋人を思い出す。彼のSNSとの距離感は好きなバンドをフォローする程度のものだった。しかしそれも私と付き合うまでの話。私に恋して、この世の全てに冷めた目線を向けていた彼が浮き足っている姿は愛らしかったし、世俗的な感情を知った彼自身、楽になれたと思う。それでもSNSに私について投稿されると嫌悪を抱いてしまうのだった。
ある日、私は「SNSに私のことをアップするのはなるべく控えてほしい」と理由も添えて出来るだけ丁寧に打ち明けた。不服そうではあるものの理解を示してくれた彼。けれど他のカップルの投稿を見ては「俺が恥ずかしいんだろ」と拗ねられ、私は彼の自信を奪っているのだろうかと申し訳ない気持ちにもなった。それと同時に執拗な彼を見ていると「この人の愛情の目盛りはそこにしかないのね」とがっくしした。
「こんなことで愛情があるだのないだの決めつけるのはナンセンスだ」と私が啖呵を切ると口が達者な彼は「俺が好きなのに"こんなこと"もできないわけ?」と言い放った。それに対して私は「本当に私が好きなら私の嫌がることを強要しないでよ」と反論した。
こうして2人は押し付け合いならぬ押し付け愛のパラドックスに陥ったわけだが、最後は私が丸め込まれた。彼に監視される中、彼の後ろ姿をLINEのホーム画面に設定した時、「私たち何のために付き合っているんだっけ」と少し笑えた。
全てが稚拙でアホらしかった。振り返れば二人の間に愛など1㎤(立方センチメートル)も発生していなかったのだから。彼は私の存在で自分の価値を確かめ、私は彼に縋るしかないと洗脳されていた。それだけの関係だった。彼は私と別れた後もそれらの投稿を消すことはなかった。あれから5年経った今でも肩を寄せ合う笑顔のツーショットは莫大な情報の下敷き。100スクロールもすれば世界中の誰でも発掘できる痛々しい化石だ。
私が恋人のSNSに自分が登場するのを嫌がる理由
「恋人が私のことをSNSにあげてくれない」「私がSNSに恋人のことを書き込むと嫌がる」と悩む人へ。相手は「面倒くさいから」「恥ずかしいから」と説明を放棄しがちで、かえってあなたの不安を増大させているかもしれない。「私がこんな容姿だから?」「見られちゃ困る相手でもいるの?」といった具合に。しかしうまく言葉にできないだけで他の理由がある可能性も。
これは私の〔恋人のSNSに自分が登場するのを嫌がる理由〕だ。
1.私は、私とあなたの間で完結したかった。
あなただけに見せた緩んだ頬をあだ名しか知らない後輩だとか、いちいち突っかかってくる女友達だとか、大っぴらに公開されるのはいい気がしない。ゴシップネタになるのはごめんだ。
2.数量化できる幸福に利用されている気がする。
「そのデートプランやプレゼント、本当に私たちのため?それともいいねのため?」
私も彼もインドアで始めはデートも公園や家で満足していた。しかし彼がSNSの快楽に目覚めると月1で遠出という謎ルールが生まれた。人混みが苦手な私は苦痛だったが、これまた「好きな人の望むようにしたいと思うのが当たり前だよな?」という圧に負けた。
本当に見たい風景・食べたい料理・相手を想った贈り物…それは素晴らしい。是非2人で足を運べばよい。しかし彼とのデートや頂いたプレゼントはピンポンボールのように空虚だった。デートの帰り道はどっと疲れがのし掛かるのに、学校に行けば隣のクラスの女子たちに「彼氏さんのインスタみたよ!何でもない日にイヴ・サンローランのリップくれるなんて太っ腹だよね~」(当時は高校生だったので太っ腹に入るようだ)等と絡まれる。私は1本5千円のグロスより、何気ない会話で好きだと話した作家の詩集を「古本屋でたまたま見つけたから」と渡される方がキュンと来ちゃう生き物なのに。
目の前にいる人と向き合うことが、寂しさを埋める一番の近道
つまりのところ「寂しい」のだ。私は恋人という肩書き以上の特別でいたかった。この問題は恋人に限らず家族や友人との間にも起こりうる。
私がまだ小学生だった頃。母に話したいことが毎日山程あった。しかし母はブログやメールに夢中で私の話に適当に相槌を打ったまま目線はいつでも画面に向いていた。
その時のぼんやりとした寂しさが今でも友人といると蘇ることがある。サロンモデルをやっているインスタグラマーの子に誘われて表参道にできた新しいカフェに行けばパフェがテーブルに到着しても私は「待て」を言い渡された犬になる。スプーンを持つ手を「ちょっと待って!」と止められ、何枚も何枚もアングルを変えて撮影。「もっと笑って!」「やっぱりフィルター変えるわ」と液晶越しに私を放置。(その間私は、もしこの子をニンニク増し増しの豚骨ラーメン屋さんに誘ったらどんな反応をされるのかを妄想する。きっと(^-^;?←こんな顔をされる)そんなこんなでよくやくありつけたパフェのアイスクリームは生誕3日目の雪だるまのように力なく溶けていた。
2人でいるのに1人でいるより独り。それは本物の孤独だ。
きっと彼も寂しかったのだろう。ただ、私ではなく大衆に寂しさを埋めてもらう方が手っ取り早かったのだ。そもそも寂しさは誰かに埋めてもらうものではない。寂しさは永遠に埋まらないし、搾取ではなく贈与によって身につく賜物でしか柔がない。だから寂しさを噛みしめながら目の前にいる人と向き合い、自己肯定感を地道に積んでゆくのが実は一番の近道だったりする。それを彼が今、他の誰かと実現出来ていれば嬉しい。
秘密にすることで得られる悦びは毎日をウキウキさせてくれる
もちろんSNSと上手く付き合い、お互いが楽しめていればいいのだが、たまには相手や自分自身がSNSに疲れていないか確認してほしい。相手は本当に笑っている?写真を撮るのが義務になっていない?
なおざりにされがちだが、「SNSにアップしてもいい?」の一言があるかないかで人のSNSになるべく登場したくない派の私でも気持ちが全く違う。
そして健康なSNS生活のためにも、時にはタップひとつで済まされる多数の評価より目の前にいる人に集中する日を作ってあげてほしい。(休肝日的な)
公開することで得られる大っぴらな喜びより、秘密にすることで得られる悦びは毎日をウキウキさせてくれる。チラリズムくらいがセクシーかもね!