運転免許の更新に行った。適性検査を待つ長い長い行列に並んで、わたしは本を読んでいた。ふと顔を上げたとき、視界の端に映る表紙。大多数が携帯を覗き込む中、もう一人だけ本を読んでる人がいた。だいたい同世代の男の人だった。
吹くはずのない風が鼻先を掠める。私の記憶は中学校の図書室にいた。
本を読んで感想を伝え合う「少しだけ特別な友人」になりたかった
中学三年、秋。わたしは図書室の常連客だった。部活も引退、クラスには居づらく、毎日一冊本を借りて、次の日返す活字中毒な生活を送っていた。
その日わたしはあさのあつこの『バッテリーⅡ』を返すところで、開室を静かに待っていた。そのとき目の前にいた男子生徒の持つ本がふと目についた。ハードカバーの真っ赤な表紙。まったく同じ本だった。
だからといって会話に発展するでもなく。互いに無言のまま図書室が開き、返却手続きをする。先に本を返した彼は、『バッテリーⅢ』を二冊持ってカウンターに戻ってきた。
「次も借りるでしょ」
これが出会いだった。
十四歳のわたしが抱いたときめきは、今思うと恋じゃなかった。そもそも今までの人生で、恋に分類される感情はひとつもない。欲求を整理してみると、わたしは「恋人」になりたかったのではなくて、ただ、「少しだけ特別な友人」になりたかったのだ。一緒に本を読んで、その感想を伝え合えればそれでよかった。肌と肌が触れ合わなくても、一冊の本を介してつながっていられたらそれでよかった。
今はもう顔も思い出せないけれど、読んでいた本は覚えている
彼とはたまに図書室で会って、ぽつりぽつりと話をするようになった。月間読書冊数の集計で同率一位になって、全校集会で表彰されたこともある。脈ありなんて無責任なクラスメイトは言ったけれど、結局そのまま卒業した。受験が迫っていたのと、元彼氏との騒動でメンタルがぶっ壊れたのが原因だが、仮にまかり間違って付き合っていたとしても、曖昧な感情を持て余して終わりを迎えていたと思う。
何年も経って、わたしは性的な何かを受け入れられない性質であると知った。愛とか恋という概念にそういう欲求がどんどん絡みつくようになって、年々恋ができなくなった。だからわたしの中では、彼が最後の「恋じゃないけど、特別だった相手」だ。
今はもう顔も思い出せないし、全然特別じゃない思い出の中の人になったけれど、読んでいた本は覚えている。今や免許センターでシェイクスピアの『ヘンリー六世』を読むスカした女が、唯一本の話をできた友人だった。
もし次会えたなら、やっぱり本の話がしたい
免許センターの男性は彼ではなかった。覚えていないけれど誕生日はかなり離れていた気がするから、当然だ。でも、もしどこかで出会ったらどうするのか少しだけ考えた。まだ本を読んでいるだろうか。どんな本を読んでるんだろうか。ライトな文芸を好んでいた彼とはもう趣味が合わないかもしれない。卒業アルバムに書いてくれたメールアドレスも、とっくに変わっているだろう。
次会うときがもしあったなら、私たちの関係性は十年振りぐらいに更新を迎える。免許だったらとっくに取り消されている空白期間だ。そもそも覚えてもらっているかも微妙なところである。でももし次会えたなら、やっぱり本の話がしたい。もう全然特別じゃなくなった彼へ。せめて、わたしに友人若葉マークをください。