三月上旬の夜、わたしは大荷物を抱えて電車に乗っていた。
 そののち、新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言が発表されたが、それよりも前に、わたしの勤める企業は自宅勤務開始を決めていた。
 自宅で仕事をするために、リュックと手持ち鞄にたくさん荷物を詰めて帰宅したのだ。

外との関わりが一気に狭められた環境で、次第に焦りに襲われた

 自宅勤務の開始直後は、奇妙な気分だった。自宅でパソコンを開く日々は、生活と仕事の境目がなくなったようで、落ち着かない。プライベートの予定もなしになり、周囲のお店も「臨時休業」の紙を掲げていた。
 近くのスーパーに買い物を行くことを除けば、外界とのつながりはオンラインだけ。外との関わりが一気に狭められた環境で、わたしは次第に焦りに襲われた。
 その焦りは、「いろんなところへ行かなくちゃ」「いろんな人に会わなくちゃ」というもので、考えてみれば学生時代からずっとわたしがわたし自身を急き立ててきた感情だった。
 わたしは、放っておくと毎日同じようなことしかせず、そのために自分自身が知っている世界が狭いのがずっとコンプレックスだった。
 興味がないものには目を向けたがらないので、流行にも疎い。十代の頃は同世代の友達と何を共通の話題としていいのかわからず、困惑したこともあった。無理して足並みをそろえて、見たくもないテレビを見たり雑誌を買ったりするのは違う気がして、自分の好みと、周囲とのギャップに戸惑うことも多かった。
 周囲とのギャップのせいで、「自分には足りないものばかりだ」といつも感じるようになっていた。足りないから「どこかへ行かなきゃ」「誰かに会わなきゃ」という焦りが生まれる。殻にこもってひとりで時間を過ごすのは得意中の得意だけど、それでは世渡りできない、生きていけない、そんな意識が、わたしを駆り立てていた。

思い付きの行動が、予想以上に心をなごやかにさせた

 外出自粛。それがますます言われるようになっても、わたしは自粛するのが怖かった。世界が止まってしまうような印象を受けた。家にいるのが落ち着かず、そわそわとして朝から夜までを過ごした。
 このまま、誰にも会わない日々を過ごしていいのか。
 ひとり暮らしで、ろくに誰ともしゃべらなくて、話し方を忘れてしまわないか。
 焦燥感が心の中を駆け回る。
 落ち着かない日々の中で、わたしはふと、いちごの鉢植えを買うことにした。ベランダでも育てやすいと聞いたことがあって、前から育てたいと思っていたからだ。
 それは単なる思い付きだったけれど、近くに緑があることは、予想以上に心をなごやかにさせた。葉を広げていくいちごを眺めていると、徐々に考え方も変わるようになって、ピリピリしていた感情が穏やかになっていった。

外の喧騒から離れて、自分の好きな世界へ豊かに浸れる特別な時間

 自分の性格で、興味がないものには目を向けないというのがコンプレックスだったが、それはつまり、好きなものにはどっぷりハマれる、ということでもある。それなら今はまさに、外の喧騒から離れて、自分の好きな世界へ豊かに浸れる特別な時間なんじゃないかと思った。
 見方が変わったおかげで、現状が自分にとって肯定的な状態に感じられるようになってきた。今は、わたしの中身を豊かに醸成させる時間なんじゃないか、そんな風に感じられるようになった。
 家にいて、できることも増えた。布団を干す機会は以前より断然増えたし、土鍋ご飯にチャレンジするようになった。ほかにも、オンラインで友達ともつながって、思いがけずいろんな話ができたり、家の近くでテイクアウトできるおいしいカフェを見つけたり。今まで見過ごしてきた、なんでもないものが大切に思えたり、古い日記を取り出して昔の自分を振り返ったり。目を向けていなかった日常を見つめ直す機会になった。
 新型コロナウイルスの影響で、つらく悲しい思いをした人も多いと思う。感染の拡大は、それ自体「良いもの」と見做せはしないだろう。けれど、わたしは当たり前にあった日常から切り離されたことで、自分や、自分を取り巻く環境と向き合う時間をもらえた。
 外出自粛を「ずっと家にいなきゃいけない」とマイナスに考えるのはもったいないと思う。今の状況だから楽しめることを大切にしていきたい。