殺意を向けられて

「あのクソ女、殺してやりたい」
その投稿が私に向けられたものだと、すぐに分かった。

よくある話だ。
私には好きな人がいて、その彼のことを好きな女の子がもうひとりいた。

私は彼女と会ったことはなかったけれど、彼女のSNSアカウントを特定するのは簡単だった。私は彼女の投稿を毎日確認した。
彼女が私のアカウントを知っていたかは分からない。でも私という恋敵の存在を知っていたのは間違いない。

そして私は、彼女の「殺してやりたい」という投稿を見つけた。前後の投稿から、その殺意は恋敵、つまり私に向いていることは明白だった。

圧倒的な恐怖に飲み込まれる。ある人間が、私を殺意の対象として眺めていること。その事実は、私の心を恐怖で染め上げた。

彼女は私と同じ大学だと分かっていた。だから、大学には行けなくなった。キャンパスで彼女と鉢合わせしたら、あるいは待ち伏せされたら、殺される。そんな想像に囚われた。

家族に危害が及ぶことまで想像した。直接襲撃されなくても、家族の仕事を妨害される可能性はある。

私の焦燥は日に日に募った。

SNSが憎しみを伝達した

SNSは、知らなくていいことまで可視化する。

SNSがなかったら、彼女は公の場に「殺してやりたい」という感情を吐き出すことはなかっただろう。そしてSNSがなかったら、私は彼女の憎しみに触れることはなかった。
SNSという媒体があったからこそ、彼女の殺意が私にまで届くという事態が発生したのだと思う。

SNSの言葉たちは、現実よりリアルだ

殺されると思った、という話を友人にしたら、「病んでたね」と言われた。そんな投稿を真に受けるなんて、相当精神がやられていたんだろう、という意味らしい。

確かに、私の反応は過剰だったのかもしれない。
たとえばカウンセラーには、彼女が殺害を実行に移すことはないだろうと言われた。でも私はそう思えなかった。本当に彼女は私を殺しにくるだろうと思った。

それは、SNSの投稿が、ときに現実よりリアルだからだ。つぶやかれた言葉は、その人のリアルな感情のように見える。SNSに流れる言葉たちは、なぜか投稿者の本音のような面構えをしている。
だから私にとっては、現実のカウンセラーの言葉よりも、彼女の投稿の方が真実に思えた。顔も見たことのない彼女の、言葉という毒を、私はなんの疑いもなく飲み込んだ。

SNSで可視化された感情は、リアリティを持つ。そのリアリティでもって現実に侵食し、取り込んでしまうのだ。