私は産声をあげて生まれた。なのに、成長するにつれて、泣くことは格段に減っていった。涙を流すことを控えた。泣くことを恥ずかしいことと、捉えるようになっていた。人前では絶対に泣けなくなっていた。
「もう、泣かないの!」「泣いてもしょうがないでしょ!」ずっとそう言われて育ってきた。だから、どうしようもない時は、自分の部屋に逃げて泣いていたこともあった。誰にも泣き顔を見せられなかった。

「泣くこと」は悪いことだと刷り込み、涙を否定していた

小学校にあがると、机に顔を伏せて毎日のように泣いている子がいた。私はそんなに泣けるなんて、ちょっと羨ましかった。だけど、次第にみんなが無視したり、嘘泣きだと言ったり、放っておくようになっていた。

だから私は「ああ、やっぱり泣くことは面倒くさがられるし、迷惑なんだ。悪いことなんだ」と思うようになっていった。心の中で、その子だけでなく自分のことも否定していた。そうやって、学校という窮屈な世界を生きてきた。

脆くなった心を拾ってくれた人との出会いとヨガを通して学んだこと

ところが最近、私の中でその考えを覆すことになった。
きっかけは、心の調子を壊してしまったこと。あともう一つはヨガ哲学に出会ったことだった。
さまざなストレスが重なり、心が脆く弱くなっていた私は、ほんの些細なことで涙が止まらなくなっていた。どこでも、泣いていた。コントロールが利かなくなってしまったのだ。
本当に恥ずかしくて、泣くことをやめたいのにやめられなくて自分のことが嫌だった。体に指示を伝達するための神経が途中でプツンと切れていたような感じだった。

でも、その時に支えてくれた人は、だれも「泣かないの」とも「みっともない」とも言わなかった。むしろ「泣くことはいいことだよ」「泣け」と言ってくれた。ありのままを抱きしめてくれた。
柔らかくて、温かいなと思った。もう自分では守りきれなくなった心を、そっと包んでくれているような心地だった。

そして、これまでずっと泣くことを否定していたのは他ならぬ自分だったと、私に呪いをかけつづけていたのは自分だったと、この時にやっと気がついた。
同時にヨガという生き方を教えてもらった。ヨガは深くて広くて、きっと今世では学びきれない。でも、少しずつヨガ哲学を教えてもらって学んでいくうちに、“ありのままでいること”や、“なりたい自分になること”にたどり着いた。それは本当の幸せに繋がる。楽に生きることに近づく。

私はもう泣くことを我慢しない。だって涙は、素晴しいものだから

過去の私だったら、きっとそんなこと分からなかったと思う。でも今なら、少しだけ分かる気がする。きっと、ありのままというのは、泣くことを我慢することではない。人によく見せることでもない。無理して一緒にいたくない人と居ることでもないと思う。誰かのための仮面なんて捨てちゃえばいい。

もっと自分のために、私のために。そしたら、きっとそういう人と出会える。心地いい人と一緒に居られる。なりたい自分に近づく。

私はこれから、泣くことを我慢するのはやめようと思う。だって涙は、悲しみも喜びも表現できる素晴しいものだから。今持っているものを最大限生かして、私の“表現”をしていきたい。
そして、誰かのためのオーダーメイドの私になることもやめようと思う。少しだけ、自分勝手でわがままな私でいようと思う。ありのままでいさせてくれる人と一緒にいようと思う。その方がきっと周りの人にも優しい心で接することが出来るから。

そう考えるようになってからは、ずっとずっとお気に入りの自分でいられている。どんな時でも自分を愛せるようになった。だから心の調子を崩したことですらも、愛おしくて大切な私の過去になった。過去があったから今の私がいる。

私はありのままで、そしてなりたい自分になるために。命を大切に、全うしたい。