新型コロナウイルスで、3月初旬から会社にリモートワークが導入された。
普段は東京に勤務しているが、1人では不安もあったため、早々と実家に移動し、かれこれ3か月ほど会社に行っていない。

実家での勤務はメリハリがつきにくいものの、母親の手料理を食べたり、洗濯もしてもらえたり、良いことづくし。ストレスに感じることもあるが、人との面会が制限される中、何より家族の大切さを改めて感じている。

こんな悠々自適な生活を送っていてコンプレックスがあるというと、罰当たりな気がしてならない。しかし、贅沢ながらも日本社会で働く限り、キャリアを築くという点で、“女性”であることは、確実にわたしにとってのコンプレックスなんじゃないかと思い始めた。

どんどん大きくなっていった…入社前と後で抱いていたギャップ

新しい職場、同期、先輩、上司、文化との出会いがあり、あっという間の1年だった。
わたしは、アメリカの大学を卒業したあと、大手日系メーカーに就職した。グローバル展開に力を入れていて、留学で培った英語力やコミュニケーション能力を十分に活かせると感じたからだ。また、男女平等、多様性を推進している会社だと直観で感じたことも決めての一つだった。

現実は、男女平等とはほど遠かった。私のフロアでの管理職の男女比は、ざっと見た感じだと8対2(男性:8割・女性:2割)で、配属部署によっても男女差がある。経営や企画系など、会社の中枢部門は男性が主体、ダイバーシティ促進や人事系など対外的な仕事が多い職場は女性が多い。どうも配属に暗黙のルールがあるようだ。
入社前と後、抱いたギャップはとてつもなく大きかった。しかし、毎日会社で過ごしていると心の中の「モヤモヤ」は次第に「当たり前」になっていた。

「多様な働き方」はコロナの為ではなく、働く人のためのものでは…?

しかし、自粛生活の中、考えることが増え(暇な時間が増えたのかな?)、ふと疑問を抱いた。こんなに偏りのある環境で働いているのに、何で何も感じなくなってしまっているのだろう?

何で男女の人口比率は半々くらいなのに、社内のリーダーは男性だらけなの?

何で大切なことを決めるオンライン会議、パソコンの画面上に映るのはほとんど男性なんだろうか?

そして“多様な働き方”って何?リモートワークも一つだろう。時短勤務、フレックス勤務など…、国内で一気に導入が進められているが、それは会社が必要性を議論した上で導入されたのではなく、対応せざるを得ない状況になったから進められたという印象が強い。

もともとコロナのためでなかったはずだ。ジェンダー関係なく、女性も男性と同じくらい社会で活躍し、会社生活で夫婦共々、子育ても両立できるように導入された制度ではなかったのだろうか?

社会に色濃く残る「男性主体」に、違和感を持たなくなりつつある…

約1年出勤し続けた今、男性の多い職場、男性主体で会社の意思決定がなされることに違和感を全く持たなくなりつつある。もし、それが当たり前になったならば、わたしは完全に“女性として働く”というコンプレックスを、気づかぬうちに自分の心の中に封じ込み、受容しまっている。

いつでも「自分らしく、ベストを尽くしたららいいよ」ってサポートしてくれる家族や心から尊敬できる友人、同期に囲まれ、金銭的にも何の不自由もなく過ごしている。これ以上の幸せはないし、私生活に不満は全くない。

このエッセイを書き始める時「コンプレックスってなんだろう」って考えても正直、ぱっとアイディアが浮かばないほど恵まれている。そして、社員思いのいい会社だと日々感じながら、仕事ができる環境にある。

ただ、社内で男の上司ばっかりっていうのはどうも自分の中で納得のいく解釈ができない(だって、男であることが上司になる条件ではないはずだし、どのファイルをあさっても明記されていないから)。

急に現れた目に見えないウイルスに対して警鐘を鳴らし、会社の制度を整えられるなら、今も昔も変わらず会社にいる目の前のヒトのためにもっと何かできるに違いない。そしたら、今よりももっともっといい会社になるし、誰もが本当の意味で働きやくなると思う。

言葉を武器にして、不条理な社会の“ノーマル”と闘えるような、ウィズコロナにしたいなって思える大好きな神戸での実家テレワーク期間だった。