公園での男子中学生3人の会話が耳に入る。
「手コキは?」
「知ってる」
「ベロコキは?」
「…知ってるよ」
「ベロコキなんてねーよ(爆笑)」
「いや、フェラ、フェラチオだろ?」
「じゃあ泡姫は?」
「知らない」
「ソープ嬢だよ。女の人が風呂で本番してくれる。じゃあピンサロは?」
「分かんない…」
「分かんないのかよ!パブは?」
「パブ…外人の店?」
「おっパブだよ!おっぱい揉ませてくれんの!」
白昼堂々とはこのことか。3人は心なしか息が上がっている。1人は案内所から出てきた酔っ払いかのように、顔を赤らめながら風俗店の解説をしている。あまりにも大声で股間の話をする3人に、説教ばっかりでウザったいお母さんにも、更年期に差し掛かってババア呼ばわりされてる疲れた顔の先生にも、ベンチでおにぎりを貪る性別不詳の私にも、まんこはついてんだよ?と語りかけたくなってくる。性風俗で働く女性たちは、まさに男に快楽を提供してくれる夢の「女の人」。

女として見られなくて傷つく。女としてだけ見られて傷つく。この2つを思春期から繰り返してきたこと、それに途方に暮れていたことを、彼らの会話を聞きながら改めて考え始めた。

女として見られないことに傷ついて。不特定多数にモテようと必死に

モテなかった時期は、圧倒的に女として見られないことに傷ついていた。性的対象になるために、美容院で全く似合わないパーマを毛先にかけ、無駄毛を毎日剃り尽くし、キラキラのアイシャドーを瞼に塗り付け、足が透けるデニールのタイツを買い、袖がフリルのブラウスを着て、歩きづらいヒールで靴づれを起こした。どんな女の子が性的対象になるのか。世間の大まかな基準をリサーチして、それに追いつこうとした。自分の身体や感情にしっくりこなくても、深くは考えなかった。男とは、恋愛とは、それを経験するにはまずスタートラインに立たないといけない。

でも、追いつこうとしても、そこまで頑張る気概がなかったのが救いだったかもしれない。中途半端な女子コスプレは男受けしなかった。単純にイタい奴にしか見えなかったと思う。

諦めた私は、自分の居心地の良さを優先させるようになった。やみくもに不特定多数にモテようとするのをやめれば、自然と自分のイメージが集約され、選択に困らなくなった。自分が嫌いなものは身につけない。嫌いな場所には行かない。

結果、初めて恋愛を経験できた。私がかつて考えていたスタートラインには立てなかったが、実はスタートラインは一つではなく、むしろレースに参加していないように見える人も、スタートはきれることが分かった。

女としてだけ見られて傷つく恐ろしさ。早く「女はこう」を終わりに

その一方で、性的対象としてだけ見られることの恐ろしさ、そういう事件が毎日頻発する社会への違和感は日に日に増した。セックスの相手、という女性に張り付けたレッテルの裏に、相手の生活、感情、思考が無にされる現象。そういった背景は無視されるか、こちらが話しても本気では聞かれない。とりあえず酒でつぶす、自分の前で酔ってたらやれる。電車の中で短いスカートだったら触っていい。むしろ触って欲しいと思ってる。相手ではなく、自分にとって都合の良い想像だけが暴走していく。

そういう男たちは、なぜか同性には見せないであろう無神経さを、女性には簡単にやってのけるのだ。性欲が目を曇らせることは、私にも経験がある。でも、いい歳してあまりに幼稚で弱くないか。

私は今まで生きてきて、女だからといって男より下だと感じたことは一度もない。幸福だと思う。女性の権利を獲得してきてくれた世代のおかげだと思う。
でも、そういう男たちが現れる度に、もう男女なんてどうでもいい!人間として付き合おう!という決心が脅かされる。1日も早く、男はこう、女はこうなんてくだらない争いは終わりにしたい。

誇張して作り上げられた女らしさが、カッコよくて。胸が熱くなった

私は明らかにもうモテなくていいと感じている。自分が愛する人にだけ愛されればいい。ある意味、満足したとも言える。しかし、私は女らしさに、まだどこか踏ん切りのつけられない複雑な感情を抱いていた。

女らしさは社会が作った基準だ。私は今までそれに添えないことにコンプレックスを感じ、セックスシンボルである綺麗な女優たち、男性の欲望を具現化したような美しい女たちに嫌悪を抱いていた。でも、心のどこかでとてつもない憧れもあった。眩しすぎて目が開けられないというような。自分の好きな人が、ちょっと美しい人を褒めるだけで、どん底に落ちたような気分になっていたのは、嫌悪と羨望の二つがせめぎ合っていたからだ。なんとかこのコンプレックスの渦から脱出したいと思ってきた。

そして最近、Netflixの「ル・ポールのドラァグ・レース」という番組を見て、誇張された女らしさのカッコよさに素直に胸が熱くなった。ある意味、生物学的な性別は男である彼らが、女装をすることで、女らしさは虚構だということが強調される。しかし、虚構であるからこそ、とんでもなく輝いていて、美しい。自ら望んで女らしさを作り上げるクイーンたちに、自身の度量の狭さを突きつけられた。同時に自分のコンプレックスが解体されていくような感覚も覚えた。

これからは女らしさも男らしさも選べる。何でもそれぞれが望んで出来る。そういう社会であるべきなのだ。人から押し付けられた基準ではなく。
女らしくありたい時は女らしくあればいい。コスプレでいいのだ。「〜らしさ」は、全部虚構でコスプレでイメージだ。個人の自由が尊重される時代なんだから、好きなイメージを選べばいい。そういう寛容さ、イメージの多様さが私には足りなかったと、深く反省した。女らしさに一つ、折り合いを付けられた。