私は大学一年の夏にとある学習塾で事務のアルバイトを始めた。講師ではなく事務のアルバイトを希望したのは、わたしの受験期には講師よりも事務の方のほうが心の支えになってくれたという経験から、自分自身も生徒に影響を与えられるような事務になりたいと考えたためである。

とは言え事務のアルバイトをするのは初めてで、しばらくは電話が鳴るたびに緊張したり、生徒のお迎えに来た保護者を前に、しどろもどろになってしまったりした。保護者控印を押す場所を間違えて反対に押してしまったとか、手差し印刷で紙を入れる向きを間違えて数十枚の紙を無駄にするとか、たまに小さな(?)失敗もしながら仕事に慣れていくうちに、わたしはある違和感を覚えた。

それは、写真付きのネームプレートだってしているのに、数か月経ってもわたしは塾長にもアルバイト講師にも、なかなか名前で呼ばれないということだ。

ネームプレートをしていても「事務さん」と呼ばれる違和感

私が目の前にいるのに、社員はアルバイト講師に「それは事務さんにお願いしておいて」と言っていたし、シフト決め中には「〇曜日は事務さんがいないから電話対応が大変だよ」と言われた。月末に出席簿やその他締め切り間近な書類の精査で忙しいわたしにアルバイト講師は半笑いで「事務さんも大変ですねぇ」などと言っていた。

被害妄想だと言われればそれまでだが、特にこの「事務さんも大変ですねぇ」には、「大変そうですね(まあ講師の方が大変だけど)」といったニュアンスが含まれているように思えてならなかった。

最初はなんとも思っていなかったほんの些細なこと一つ一つが棘となって、チクチクとわたしを刺していた。痛いか痛くないか分からない程の小さな痛みはだんだんと確信的なものへと変わっていった。当時のわたしは「事務さん」と誰かに呼ばれるたびに、粘土を握りつぶすように、自分でも訳が分からない自分に造形されている気がしていた。

仕事や人格への敬意が感じられない呼び方に偏見すら感じてしまう

「事務さん」という言葉が好きではないのは、その言葉が事務に対する軽視や、人格を否定するような香りをまとっているからだと思う。

「事務さん」と言ってきた人たちに悪気がないのは分かるし、その人たちを恨んでいるわけでもない。個人に問題があるというよりは根本的には社会の問題であるはずだ。事務は「誰にでもできていくらでも替えのきく低レベルな仕事」だという偏見や、自分よりも立場が下だと考えている人に対しては雑に扱っても構わないといった考え方が、意識的にも無意識的にも社会的に広く持たれているのではないだろうか。

このような考え方自体、事務という仕事を軽視しているようで全く敬意を感じられないし、職種という肩書によって人格まで否定されているように感じる。まるで、「お前のような人間に名前は必要ない」と間接的に言われているような気分にさえなる。
わたしにはちゃんと名前があるのに。わたしの名前は「事務さん」なんかじゃないのに。

一括りに「透明人間化」せず、一人ひとりを認めてほしい

このような現象はわたしのアルバイト先や事務という仕事に限ったことではないだろう。男性女性に関わらず、自分が周りの人にどう接しているのか今一度振り返ってみてほしい。わたしの場合は、たまたま男性社員に「事務さん」と呼ばれていたけれど、女性でも社会的地位がある人は無意識にそのように呼んでしまっている人もいるかもしれない。

わたしも、あなたも人間で、名前があって、生きている。どうか、自分の周りの人のことを透明人間化しないで欲しい。人間のアイデンティティというものは、その人一人の中で成立しているものではなく、周囲が、社会が作り出すものなのだから。