「朝の口の中ってさ、便10グラム分の菌が繁殖してるらしいよ」
と言われたのは、わたしがお昼ご飯を食べている真っ最中のことで、「はあ、そうですか」と気の抜けたあいづちを打つと、
「便が10グラムだよ?!」
と相手はさらに強調してきました。

次々と発せられる耳をふさぎたくなるような言葉

これは、仕事のクライアントのXさんという人との実際の会話の内容。
50過ぎのいい大人が、ご飯中とは思えない話題を振ってくるので、ちょっと言葉を失いました。
ですが、ぶしつけな言葉はこれだけではなかったのです。別の機会にお会いしたとき、こちらの社で年長のメンバーがいないことに気づいて、
「あれ? ○○さんは?」
と尋ねてきたので、体調不良で今回はおりません、とお答えすると、
「ありゃー、体調不良? コーネンキ?」
と、Xさん。
よくまあ、これだけ不快なことがさらりと言えるな、と唖然としたのを覚えています。

自分にとってXさんは、年に数回顔を合わせるだけの相手。だからその場では我慢できたものの、会った後もずっと不快な気持ちが残っていたため、職場の先輩にXさんのモラハラ発言について愚痴を言ってしまいました。
すると、先輩は話を受け止めてくれた上で、
「でもまあ、Xさんも、その上司の人に散々言われてきたから、しかたないのかもね」
と言うのです。

悪い言葉に汚染されていったXさんは可哀想?

先輩いわく、Xさんは、その上司に嫌みを言われ続けていたのだそう。
社外の人の前で、Xさんを叱責していたその上司という人も人格を疑いますが、だからといってXさんに同情を寄せる気にはなりませんでした。上司に嫌みを言われていたとしても、それでモラルを逸した心ない発言が許されるわけではないからです。
むしろ、なんの考えもなしにその風潮に染まっていったXさんの心を思うと、ぞっとしました。
Xさんは、悪い言葉で溢れた環境に身を置くばかりに、自分の言葉がいかに汚染されているのか、まったく気づいていないのでしょう。だから、人が顔をしかめるのにも気づかず、毒のような言葉を吐いていられるのだと思います。
Xさんに
「それはモラハラですよ」
「セクハラですよ」
と注意できればよかったのですが、咄嗟にはそうした言葉は出てこないもの。
わたしが選んだのは、Xさんとはなるべく距離を取るということでした。必要最低限にしか近づかない。影響のないように、自己防衛をする。
もしかしたらそうやって、周囲の人もXさんから距離を置いているのかもしれません。
大人なのに未だに言葉が矯正されないのは、たしなめてくれる優しい人、正しい人が周りにいないためでしょう。
それはXさんの不幸なのだと思います。可哀想なことではあるのかもしれません。

ありたいわたしであるために、嫌悪感をちゃんと感じていたい

でも、Xさんへの同情はやはりできません。
それは、どう判断し、どういう言葉を選び、どんな人間関係を望み、どうありたいと願うかは、Xさんにゆだねられていると思うからです。
もしかしたら、悪い言葉を浴びせられているうちに、徐々にその環境に左右されてしまうということがあるかもしれない。
だけど、そこから脱せるのも、結局はその人次第なのだと思います。

そして、わたしのあり方だってやはり、自分次第なのだと思います。
気をゆるめたら、ずるずると悪い方向へ引きずられてしまう可能性がわたしにだってあるのです。
そうならないために、悪い言葉に慣れてはいけないと感じます。
世の中にはまだまだ耳を疑いたくなるような心ない言葉があふれています。ネットでも、リアルでも、無神経な言葉に悲しいながら出合ってしまう。そんなとき、わたしはいつもきちんと「嫌だ」と感じていたいのです。「これは間違っている」「だめだ」と、きちんと危険信号を発せるように。
大切なものを、当たり前に大切にし、よくないものを、当たり前に「いけない」と感じられるようでありたいと思っています。