桜みたいな人だった。
みんなに愛されて、おだやかにふわっと優しくて、あっという間にいなくなる。
そんな彼を思い出すときに一番に出てくるのは、夜の暗闇に浮かぶ横顔。色白に黒髪の優しい横顔を眺められるのは、春のたおやかな日差しの中ではなく、決まって深夜の白い街頭の下だった。
5年前の春、私は触れてはいけない手に触れ、恋に落ち、桜と共にゆっくりと散った。
彼の大切な人にはなれない。わかっていても、やめられない恋だった
出会いは至って平凡だった。
暇と収入のバランスが傾いた女子大生2年目の冬、私はアルバイトを始めた。4つ年上の先輩で、やけに柔軟剤のいい香りがするのが彼だった。
出会ってからというものの、あれよあれよという間に恋の渦に飲み込まれていた。
第一印象は香りしか記憶になかったはずなのに、不思議なもので気付いたころには沼の底。
そして、私の好意がだだ洩れだったのかどんくさかったのか、速攻で彼に好意がばれた。
すぐに気付かれた事は誤算だったが、それからしばらくは幸せなことが続いた。
下の名前を初めて男の人に呼び捨てにされたこと
さりげなく交換した絵文字だらけのLINE
名札の裏に2人だけの秘密のメモが貼ってあった朝
毎日がハッピーで、特にアルバイトがある日の私はいつもの3倍可愛かったと思う。
うっかり胸を抑えて叫びそうになるのを堪えるのが大変だった。そして、勝手に期待した。
「彼、付き合って長い彼女いるよ」
ある日、苦い顔をしたアルバイト仲間が教えてくれた。
少し酒癖が悪いことも、女の人に甘えることが、とても上手だということも。
「あんなに素敵な人に恋人がいないわけがないか」
楽しい反面、実は前からそんな気がしていたのだ。
だけれど、すでに発車していた列車から降りることはできなかった。風船のように膨らんだ期待を、そう簡単にしぼめることはできなかったのだ。
惰性でカラオケで一夜を過ごしたり、深夜の駅でおしゃべりしたり、彼の最寄り駅の一駅先で一緒に降りて、夜道をお散歩したこともあった。彼の左側で右手がやんわりと繋がれていたこと以外は、至って普通の友達だった。
まだ冷たい春風が二人を叱るように吹いたけれど、彼は気付かないふりをしていた。気づかないふりをした彼に問いたいことは山ほどあったけれど、よわい私は怖くて胸の奥底にしまいこんだ。
いつも会えるのは夜だけだったし、いくら付き合えないと心に言い聞かせても、いくら触れさせてはいけないと意思を固めても、もう駄目だった。
夜にだけ2人で会える時のまったりした空気が、彼の柔軟剤の香りが、私に触れる手が、忘れられなかった。苦しくても、もどかしくても、どうしても大好きだったのだ。
ただこのまま、好きでい続けたかった。いや、幸せを奪われたくなかったといったほうが正しいのかもしれない。
だから私も人の幸せを奪うことはしなかったけれど、いつか何かが変わってくれるのを、夜空を見上げてそっと願った。
たった一度の彼とのキスは、私たちの線引きのようなもの
2回目の深夜のカラオケを出て白んできた空を見ながら朝を迎えた日、成り行きでうちに来た彼とキスをした。たった一回、それ以上は何も起こらなかった。
「あ、私たちってきっとここまでなんだな」
身体的接触をしたという一線は、私たちにとってはもうこれ以上深い関係にはなれないという線引きのようなものだった。
どう努力しても、私は彼の大切な人にはなれないと悟った。
窓の外で、満開の時期を過ぎた桜がゆっくり散りはじめていた。
手が届かないままでいい。もう一度、ずるくて優しい彼に会いたい
あれから5年、彼とは飲みの場で数回顔を合わせただけで、2人きりで出会うことはなかった。
今思えば、出会ってから一度もお互いの好きなものや生活についてのあれこれを話すことはなく、何も知らないままだった。何も知らないのに好きで、何が好きかわからないのに大好きだった。当たり障りのない範囲でじゃれ合い、当たり障りのない範囲だけの彼が好きだったけれど、それでもよかったのだ。
今日もどこかで、好きな仕事をして好きなものを食べて、変わらずに優しい笑顔で笑ってくれているだけで私は満足だ。
心の奥底に無理やりしまい込んだ想いは、決まって桜の時期になると思い出す。
それなりに恋愛を経験して、下の名前で呼ばれることにももう慣れてしまったけれど、散っていく桜を見て今年も思う。
もし次会えることがあるなら、その時は二人で。わがままを言うと、お昼に会いたいな。
そしてまた、優しく名前を呼んで欲しい。私が名前を呼ばれて胸が高鳴るのは、今もあなただけだから。
何でもいいから、無駄話がしたい。だってあなたのこと、まだ何も知らない。それから少し緊張がほぐれた頃に、5年前の私たちのことを笑って話したい。
「ごめんね」なんかいらなくて、彼と笑って水に流せれば、受け止めてもらえれば、ようやく少し報われる気がするから。
次会うときは、太陽の下でその笑顔を私だけに下さい。ほんの少しの時間だけでいい。
色んな人と出会ったけれど、いつまでも手の届かない彼からの笑顔が、5年間ずっとずっと欲しかった。
私のものにならなくてもいいから、ずるくて優しい彼に、また会いたい。