数日前、パートナーにお別れの手紙を書いた。
複数の相手がいる人だった。

これは誠実ではない関係だから、不貞が明るみになった後に残るのは「修羅場」だと思われるのかもしれない。

2人の関係もデートの話も…自分のことのように嬉しかった

私は、ずっと“好きな人のことを好きな人”も含めて愛していた。はじめて配偶者以外に関係を築くことができた人。どこまでも優しいのに、自分にだけは優しくできない人。

小学生のころに、友達から好きな人の話をされたことがあった。友達の好きな人は、私も好きな人で「これで好きな人の話を一緒にできる」と思った。でも、それを望むのは“私だけだ”とすぐに気づかされた。

だから、本当に嬉しかった。ずっと、ずっと、本当は望んでいたから。

“好きな人のことを好きな人”が、どれだけ大事に想い合っているかを知っては嬉しくなった。デートの話を聞くのも楽しかった。「こんなに愛されているんだな」「そんな一面もあるんだ」と、2人の関係を自分のことのように喜んでいた。

「ポリアモリー」は、関係者全員の合意を得ていることが重要

“好きな人のことを好きな人”も大事。
私のような人はあまりいなかったようで、いろんな関係者の話を聞く日々を過ごしていた。だから、気づいてしまったのだ。この関係に“合意”していない人もいることに。
そうと気づいてから、少しずつ苦しくなっていった。
きっと、一夫一婦制や一対一を理想とする倫理から解放された“自由な関係”を、あの人らしいやり方で築きあげてきた結果なのだろう。

一方の私は、配偶者を含めた両人から“合意”を得ていた。けれど、“関係者全員の合意”には至っていなかったのだ。
どうしても“合意”に意識が向いてしまうのは、学生時代に友人から教えてもらったことがあったからだ。

“ポリアモリー”は、私がセクシャリティを見つめ直すきっかけになった言葉だった。
ポリアモリーとは、同時に複数の者と親密な関係を築く愛のスタイルのことだ。
それまで、まったく耳にしたことがなかったのに、調べれば調べるほど既視感を覚える不思議な体験だった。これまで、しっくりこないと感じていた関係性のあり方に対して、それぞれ方法で向き合っている人たちがいたのだ。ただ、私が知らなかっただけで。

なかでも、『ポリアモリ― 恋愛革命(河出書房新社)』の論理に書かれていた、一節が印象に残っている。

1 意思決定は合意の上で:それぞれが自由に意見を出し合い、つきあいの条件をで決めること。この点がおそらく、論理に反しない責任ある関係を築くための最も基本的な要件だろう。(引用元:ポリアモリ― 恋愛革命)

この一文にどうしても惹かれてしまうのは、“複数の人を愛すること”をせめて関係している人からは「許されていたい」と本心では望んでいたからだと思う。それでも、ポリアモリストになりたい、すぐに実践したいという考えにはならなかった。私にとってポリアモリーは活動ではないし、こうありたいと思える相手がいなければ成立しないものだから。

けれど、思いもしないタイミングで一対一に限らない関係は始まった。そこで新しく知ることができたのは、“好きな人のことを好きな人”が、少しでも悲しい気持ちになるのはとても哀しいということ。こうして、私にとってポリアモリーの実践と関係者全員の合意は切り離せないものになっていく。

心の赴くままに行動を重ねた先で、相手を好きだと思う気持ちと理想の関係性の間に、壮大な自己矛盾を抱え込むことになる。このとき幾度となくニーバの祈りが頭によぎった。

「神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい」

1人では抱えきれなくなって、配偶者にもこの葛藤を話した。

自分が「ポリアモリスト」であることは変えられなかった

彼にはプロポーズのときに、取説と題したA4サイズ1枚のデータを送りつけている。そこには、私が抱えている課題を書き留めていた。結婚という提案を判断する上で、相手にはリスクを把握する権利があると考えていたからだ。

「もしかしたら、一夫一妻制に共感できていないのかもしれない」「ポリアモリーな気質があるのかも」

そう告げると、いくつも論文に目を通して考えをまとめてくれた。その思考の美しさを忘れられない。こうして、はじめて私のセクシャリティに理解を示してくれた人になった。

そんな彼に、はじめてづくしの出来事で感じたことを言葉にすればするほどに、ポリアモリストの自覚は強まっていった。

最後の手紙には、自分がポリアモリストであること、それは変えられないものだと結論づけたことを書き記した。それ以外にも、色々と。

もしも、私が好きな人のために変わることのできる人だったら、何かが違っていたんだろう。出会えて良かったけれど、全く違う人間として出会いたかった。