「お前って新しいタイプのぶりっ子だよな」
こう言われたのも、7年前くらいだろうか。当時の上司にそう言われた時、私はその言葉の意味が分からなかった。特に「新しいタイプ」の意味がさっぱり分からなかったので「お前ってぶりっ子だよな」という言葉だけが残った。
私が、ぶりっ子?
自分が傷つかないために「ぶりっ子」になることがお守りだった
私の中で“ぶりっ子”とは、自分を可愛いと思っている子、可愛く見せている子、媚びている子という認識だった。当時の私は真逆で、自分のことを不細工だと思っていたし、そんな可愛くない自分が媚を売ったって気持ち悪いだけだし、ぶりっ子なんて程遠いと思っていた。何より“ぶりっ子”という言葉には、ネガティブな要素が含まれていることも多かったから、そう言われてひどくショックを受けたことを覚えている。
私はぶりっ子なんかじゃない。こんな醜い自分が大嫌いなのに。一緒にしないでよ。
その言葉は小さな引っ掛かりとなり、幾数年も私の心に残り続けた。
けど、うん。私は、ぶりっ子だったのかも。
それに気づいたのは、転職をして、少しずつ日常に余裕が生まれた頃のことだ。それまで毎日デロデロになるまで働き、土日深夜問わずかかってくる電話を受け、時に会社で寝泊まりし…という生活から逃れ、私は丁寧な暮らしができるようになっていた。攻撃的な態度を取る上司もいなくなり、自分にかけていた何層ものシールドが少しずつ解かれていった。
自分を守るために必死だったあの頃。ガチガチになって、他人も自分も受け入れられなかったあの頃。
けど、その強固な守りこそが“ぶりっ子”の正体だった。“かわいい”自分が傷つかないための、お守りだった。
あの頃の私は、無意識に「かわいい自分」を演じて武装していた
当時私は、分からないことがあったとしても恐くて口には出せなかったから、あえて首を傾げ「分かりません」を示したり、重い荷物を持った際も「重いです」と呟いて目でじっと訴えてみたり、失敗したなと思ったらめちゃくちゃしょんぼりした雰囲気を出したり。いや、これがぶりっ子だということではないけど、要は自分発信を避けて受け身に振る舞っていた。
うるうる瞳を潤ませる子犬のように、可愛くて可愛そうな私を拾ってください。私は無力な小動物なんです。そう言わんばかりに可愛い私を、無意識に、演じていた。自分を“可愛い仕草”で武装していた。
その必要がなくなった今でも、首をかしげる仕草だったり、歩幅を小さくして歩いたり、モノを両手で持ったりする癖は完全に抜けきれない。当時のシールドが一部残ってしまっているようで、それ程あの頃は傷だらけだったんだなと思う。お疲れ自分。
けど、この武装の存在に気付いて、ようやく分かったのが、私自身が「かわいくて、大切」だってこと。
これは容姿的な部分ではなく、心の話をしている。急に何だと思う方もいるだろうが、考えてみて欲しい。
私は自分自身を大切に…そして、かわいがって生きていく♡
誰だって自分自身が一番大切で、傷つかないよう生きていきたいはず。だけど、容姿の「可愛い」に躍らされ、私たちは自分自身を「かわいがる(大切にする)」ことを見失ってはいないだろうか。誰がどう言おうとも、この世で最もかわいくて大事にしたいのは自分。
みんなも自分を守るために、いろんな手段を使って武装してたりしない? 私はそれが無自覚な”ぶりっ子仕草”だったってこと。
容姿は正直今でも好きじゃないけど、嫌いでもなくなってきたし、時々自分のこと嫌いになるけど、甘いものとお酒とアイドルで元気になることを知っているから思う存分摂取する。そうやって自分自身を「かわいい、かわいい」と大事にして、ハードな日々を生き抜いている。
私は、自分自身がかわいいんだと自覚してから、生きるのが少し楽になった。ご機嫌な自分が一番好き。
もしかして「新しいタイプのぶりっ子」ってのは「顔がブスなのに可愛い子ぶるよな」って意味だったのかもしれない。うるせえよ!ぶん殴るぞ(笑)!
だけど、しょうがない。だって私は自分が大切なんだもん。みーんなみんな、かわいい存在なんだもーん!
あー、何かスッキリした。私、自分に「かわいい」って言いたかったんだ。